第二話:韓信転々



韓信は項梁軍には入ったものの、一兵卒であり、名を知られる働きはなかった。

項梁が戦死すると、後を継いだ項羽の配下となった。

項羽は、韓信のデカイ図体を見て、郎中(護衛官)に任命した。


項羽は西進し、章邯を捕虜として関中へ向った。

韓信は度々陣中で軍略を進言したが、項羽はこれを取り上げることができなかった。

韓信はこの時点で、項羽配下であることの無意味さを感じた。

彼は、自分の意見に耳を貸してくれる人を求めていたのだ。



関中争奪戦は、劉邦が先に咸陽を落とし勝者となり、遅れて項羽が入った。

しかし実力差で劣る劉邦は項羽に功績を全て譲り、

項羽は西楚の覇王となり、劉邦は僻地の漢王に飛ばされた。

この時、韓信は覇王項羽の軍を抜け出し、漢王劉邦の下へ走った。

どうもこの逃亡は、項羽を見限ったのではなく、意見を用いてくれる主を求めての行動らしい。

漢軍に属した韓信は、連敖(れんごう・接待係)という下っ端役人に任命された。

淮陰では殆んど浮浪者と変わらない生活を送っていた男が、

連敖とはいえ役職を得られたこと自体幸運であった。

しかし、韓信はまったく満足していなかった。


彼はヤケクソになったのか、法を犯し斬首の判決を下された。

そのとき死刑囚は十四人いたが、十三人が斬首され、ついに韓信の番が回ってきた。

韓信が顔をあげると、ちょうど夏侯嬰と視線が合った。

韓信は最後の望みを賭けて言った。

「漢王は天下を取ろうという望みがあるのではないのですか?

ならば、なぜ男一匹の首を斬ったりなさるのだ!」

夏侯嬰はその面魂を見て韓信を気に入り、処刑を止めさせた。

そして縄を解かせ、時間をかけて韓信と大いに語り合った。

夏侯嬰はさらに韓信を気に入り、劉邦に韓信を推挙した。


劉邦は韓信という人間を知らず、夏侯嬰の推挙だけだったのでまだ認めたわけではなかった。

そこで、治粟都尉という食糧管理の役職につけた。

治粟都尉の上司は丞相であった。丞相は劉邦の信頼厚き蕭何であり、

韓信は蕭何と度々語り合う機会を持った。

語りあううちに蕭何は韓信の才能に驚き、漢の全軍を任せるに足る才能であると評価した。

蕭何は何度も韓信を劉邦に推挙した。

しかし劉邦は韓信をよく知らず、治粟都尉から引き上げるつもりはなかった。


韓信は、丞相蕭何の推挙でも自分が用いられないことから、もう任用されることは無いだろうと思い、

漢の首都南鄭から密かに逃げ出した。

韓信逃亡の噂を聞きつけた蕭何は、劉邦に断りも入れずに単身韓信を追った。


劉邦の元に、丞相逃亡の情報が入った。

劉邦は僻地の南鄭に入り、精神的にも参っていたこともあり絶望的な気持ちになった。

蕭何がいなくては、漢は成り立たないのである。『史記』は、「上大怒、如失左右手。」と伝える。



数日すると蕭何がヒョッコリ現れ、劉邦に目通りした。

劉邦は、嬉しいやら腹が立つやらで、複雑な表情をしていたが、蕭何を怒鳴りつけた。


劉邦 「なぜ、お前は逃げたんだ!!」

蕭何 「わたくしが逃げるわけがありません。わたくしは逃げた者を追っていたのです。」

劉邦 「・・・そうだよな。お前が逃げるわけがないよな。

で、追いかけていたのは誰だ?」

蕭何 「治粟都尉の韓信です。」

劉邦 「なんだと!? 今まで将校達が何十人も逃亡したというのに、お前は誰一人

追いかけようとしなかったではないか!

それなのに、蕭何は韓信ごときを追いかけるのか?

韓信を追っていたというのは嘘じゃ!!」

蕭何 「漢王さま。将校連中は再び容易に手に入れることができます。

しかし韓信は『國士無雙(国家的人材)』であり、またと得がたい人材であります。

漢王さまがいつまでも僻地の王でご満足でしたら、韓信を用いる必要はありません。

しかし天下を争うご決意ならば、韓信以外に用いるべき人材はおりません。」

劉邦 「もちろん、ワシも東に帰るのが望みじゃ。こんな僻地で燻っているつもりはないぞ。」

蕭何 「では、韓信を充分に用いてくださいませ。そうすれば韓信は留まりましょう。

充分に用いることができないならば、韓信はまた逃亡するだけでしょう。」

劉邦 「わかった。君の為に、韓信を将軍に取り立てよう。」

蕭何 「漢王は韓信の才能をご存じない。将軍ごときでは、韓信は逃げ去るでしょう。」

劉邦 「なにっ? では、大将しかないではないか。では韓信を大将としよう。」

蕭何 「ありがとうございます。」


劉邦は、近くにいた者に命じて韓信を呼び出そうとした。

しかし、蕭何がそれを止めた。


蕭何 「漢王は日頃から傲慢で礼儀がなさすぎですぞ。

大将を任命するというのに、子どもを呼びつけるようになさるとは。

これでは韓信は立ち去ってしまいますぞ。

韓信を親任しようというお気持ちならば、吉日を選んで身を清められ、高い台を造り、

大将任命式の儀式を整えられますように。そうしなければ駄目です。」

劉邦 「わ、わかったよ。お前に任せた。」



人の心とは面白いものである。劉邦配下の将軍達は自分の功績を思い、

我こそが大将になるのだと有頂天になった。

しかし、大将任命式に台に登ったのは新参者で治粟都尉の韓信であった。

全軍、驚かぬ者はなかった。

だいたい劉邦自身、なぜ韓信を大将にしなければならないのか解らなかった。

蕭何や夏侯嬰にウルサク言われたから、言う通りにしただけであった。


このように、蕭何と夏侯嬰以外の人間には何が何だか判らぬまま儀式が進行したのであった・・・


第三話へ

HOME