第三話:急転項梁は懐王を立ててから数ヵ月後、ついに大規模な軍事行動にでた。 亢父から東阿へと転戦して秦軍を破り、連戦連勝であった。 ところが東阿で項羽と劉邦に別働隊を与え、軍を二つに分けた。 項羽と劉邦はよくやった。城陽・濮陽・定陶と転戦して秦軍を打ち破り、 ついには丞相李斯の子の三川郡長官・李由を斬った。 項梁は自ら軍を率いて定陶を攻撃し、これを屠った。 宋義はあきらかに軍に驕慢の色が出ていると感じ項梁を諌めたが、 相手にされず斉へ使者として出されてしまった。 結局、秦の章邯は全兵力をもって定陶を攻撃し、項梁を戦死させた。 このとき范増が項梁と共に定陶にいたのか、それとも項羽に同行していたのかよくわからない。 定陶にいたのなら、范増は落ちのびて彭城に退却する項羽・劉邦と合流したのだろう。 彭城には懐王が出てきており、軍を指揮下に置き直接指示をだした。 劉邦に別働隊を率いさせ秦本国に向かわせ、 本隊は宋義を上将軍とし、項羽を魯公として次将に、范増を末将とし、 章邯に包囲されて瀕死であった趙を救援させた。 しかし宋義は斉と私的な取引をし、安陽で四十六日間も兵を留めた。 項羽は宋義を斬り、桓楚を使者として懐王に事後報告をした。 懐王は懼れ、項羽を上将軍に任じ、范増らはすべて項羽に所属させた。 項羽は鉅鹿へ行き秦軍を破り、諸侯を従えた。章邯も二十万の兵と共に項羽に降った。 項羽は新安でこの二十万人を穴埋にしたが、この時范増が何をしていたか全く書かれていない。 反対しなかったのだろうか。 項羽軍が函谷関に達すると、劉邦が既に秦を滅ぼしており函谷関を閉ざしていた。 項羽は黥布に命じてこれを破らせ、四十万の兵を鴻門に陣取らせ劉邦を威嚇した。 項羽は兵士に食事を振舞い、明日総攻撃を仕掛けることを知らしめた。 総攻撃を控え、范増は項羽に言った。 |
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范増 | 「将軍。沛公(劉邦)がごろつきだった頃は、財貨を貪り女を好んだのです。 それが今、秦の地に入ると財物を貪ることもなく、美女を侍らすこともありません。 これは、沛公の志が小さくないということです。 臣がある人に頼んで沛公の気をみてもらったところ、 みな竜虎や五釆の気を成しているとのことです。 これは天子の気です。 急遽攻撃して、沛公を取逃がしてはなりません。」 |
項羽は、明朝攻撃を開始することを范増に約束した。 范増は、劉邦の幕下に人材が集まり天下を取りうる勢力にまで成長したのを知っていたのだろう。 項梁敗死〜函谷関突破の情勢急転時、范増が何をしていたか『史記』には全く書かれていない。 やはり項羽が天下人になれなかった為、記録に残されなかったのだろう。残念である。 |