第二話:往説項梁


秦二世胡亥元年の七月、陳勝・呉広が大沢郷で反乱を起し、あっという間に勢力を拡大し、

兵車六百、騎兵千、歩兵数万で陳を制圧し、張楚を建国し自ら立って王となった。

陳勝の下には、孔子の直系の子孫孔鮒も馳せ参じ博士となった。

その勢いで、周文(春申君・項燕に仕えた)を将軍とし、咸陽へ向かわせた。

要害の函谷関を破り戯まで到達したが、秦の章邯の逆襲にあい軍は壊滅、周文は戦死した。

陳にも秦軍は攻め寄せ、張楚軍は大敗し(孔鮒は戦死)陳勝は御者に殺された。

それを聞いた野心多き秦嘉という者が、景駒という者を王に立てたが、

呉から北上してきた項梁(項羽の叔父)に彭城で打ち破られ敗死した。

項梁は陳勝の跡を継ぎ、名実共に反乱軍首謀者となった。




項梁は陳勝残党や各地に点在する反乱軍を集め自軍に組み入れる為、薛に入り会合を開いた。

この会合にはあの劉邦も小勢力を率いて参加していた。

范増は、陳勝には目も呉れなかったが項梁には何か感じるものがあったのか、

老躯を引っさげてわざわざ薛へ行き、項梁に面会を求めた。


范増 「私が思うに、陳勝が敗れたのは当然のことです。」

項梁 「??

なぜでしょう?是非お教え願えませぬか。」

范増 「秦は六国を滅ぼしましたが、その中でも楚が最も罪がなかったのです。

楚の懐王は騙されて秦へ入国し、亡骸となって帰国されました。
(抑留され脱出に失敗するなど、悲惨な病死であった。秦は楚へ遺体を送り返した。
人々は悲歎に暮れ、秦は非道の国であると中国全土に認知されたという)


楚の人々は懐王を憐れみ、今に至っております。

故に楚の南公(陰陽家か?三十一篇の書を残す。残存せず)は『楚の秦に対する怨みは強い。

楚国がたった三軒の民家しかないほどに落ちぶれても、秦を滅ぼすものは楚である。』

と予言しております。」

項梁 「なるほど・・・。」

范増 「陳勝は真っ先に秦に反旗を翻しましたが、楚王の子孫を王に立てず

自ら王になってしまいました。だから勢いは持続しなかったのです。

いま、項君は江東から兵をあげられ、

楚の各地から群がり起こった諸将が争って君の傘下に入ろうとしております。

それは君の家が代々楚の将軍を輩出する家柄であり、

再び楚王の子孫を立てて王にすることが出来ると思っているからなのです。」

項梁 「そうか・・・。よくぞ教えてくださった。」


項梁は、真に范増の言葉通りであると思い、

懐王の孫・心が民間に隠れ雇われて羊飼いをしているのを見つけだし、立てて懐王と名乗らせた。

項梁には楚の人々の気持ちがよくわかっていた。

彼の父項燕は、一度は秦将李信を大敗させたが名将王翦に敗れ死んだのである。


これより范増は項梁軍の参謀となる。

項梁は范増と相談し、陳嬰を上柱国に任命し、楚都をくいとし懐王と共に住まわせた。

項梁は武信君と称し、権力の一切を握った。


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