第六話:別れ




薄姫は皇太后となると、早くに亡くなった父を追尊して霊文侯とし、

父の墓のある会稽郡に墓守のための部落300戸を置いた。

母は櫟陽(れきよう:長安の北)に葬られていたが、

父と同じく墓守のための部落300戸を置き、法律どおり祭祀を行った。

また薄姫は、「自分が高位にのぼったのは母方が戦国魏の王族であったからだ。」と思い、

また、「父を失った私を育ててくれた魏一族に報いたい。」とも思い、

残っていた魏氏を召し出して労役免除の恩典を与え、親疎の差によって恩賞を授けた。

父方の薄一族にはこのような恩典があたえられなかったようだが、

薄姫の弟、薄昭を侯に任命した。

この弟は異母弟なのかどうか・・・よくわからない。

が、血縁者が少ない薄姫にとってはかけがえの無い肉親であったことには違いないだろう。



こうやって見てみるとわかるが、薄姫の親族で政治的実権を持った人がいない。

自分の一族に恩賞を与えたり、両親を祀ったりはしているものの、

権力の中枢に近づける人は母方の魏家・父方の薄家ともに一人もいないのである。

薄姫は前代の呂一族の悲惨な末路を見て、

「外戚に実権を持たせると、つけあがり天下を混乱に陥れる。」

と、肌で感じていたのだろう。



前漢・後漢を通じて、賢夫人としてまず名前が挙がるのは、

後漢光武帝の陰皇后、明帝の馬皇后であろう。

だが、薄姫も賢夫人として負けてはいない。

薄姫自身が権力を振るうことは一度もなく、息子の文帝の相談役に終始した。


ただ、息子の身に関わることだけには口出しした。

例えば、誰を皇后とするか決めるときがそうだった。

薄姫は、「皇太子の母を皇后に立てるのがよいでしょう。」と息子に薦め、その意見が採用された。

また、文帝自身が総大将となり匈奴を討つと言い張って群臣を困らせたとき、

薄姫が止めに入って息子を説得し、やっと親征は中止された。

ただそれだけであった。



薄姫と劉恆がまだ代にいた頃、薄姫が病になり三年間臥せっていたことがあった。

劉恆は母の側に寝起きし、垢だらけになっても風呂にはいろうともしなかった。

そんな親孝行な文帝劉恆は母薄姫を置き去りにして紀元前157年に死んだ。

老いた薄姫の心は、息子との永遠の離れの悲しみで満たされただろう。


そしてその二年後、

別れと出会いを繰り返し、人一倍悲しみと喜びを味わった薄姫もこの世を去った。

薄姫の墓は文帝の陵の側に造られた。


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