第五話:母性は偉大なり



劉邦が項羽を倒し天下を平定すると、功臣粛清が始まった。

代王の韓王信が殺されたとき、劉邦は群臣に誰を代王にするか質問した。

相国蕭何や燕王盧綰は薄姫の息子の劉恆を推した。

「皇子の恆どのは賢明で温厚です。どうか代王に立ててくださいますように。」


こうして薄姫の息子は代王となった。

しかし、薄姫自身は劉邦の後宮に残った。

この時代、後宮の女性は天子の私有物扱いをされており、

後宮の女性は勝手に後宮から出ることはできなかったからである。



その後数年して高祖劉邦が死んだ。紀元前195年であった。

主人が死ぬと女性達は後宮から出ることができたが、劉邦の正妻呂后は嫉妬深く残忍な性格だった為、

劉邦に寵愛された後宮の女性をことごとく拘束して幽閉した。

劉邦の寵愛を一身に受けた戚姫にいたっては、

手足は断ち切られ、眼球はくり抜かれ耳も潰され、喉は薬で焼かれ喋れないようにされた。

そして挙句の果てにはその死体は便所に放り込まれた。

恵帝はこれを見て病気になり死んだという。

しかし薄姫だけは後宮から出ることを許された。

劉邦の子を持ったのに呂后にまったく嫉妬されなかったのは、

薄姫が後宮の主である呂后に謙虚に仕えていたからである。

(殆んど劉邦に接しなかったということもあるが・・・。)

めちゃめちゃな殺され方をした戚姫は、劉邦の寵愛をかさに着て、

呂后の一人息子を廃して自分の子を後継ぎにして欲しいと劉邦にお願いしたりしていた。

要するに、呂后と権勢を争ってしまったのである。

戚姫は呂后の人間性を見抜けなかったと言えるだろう。



こうして薄姫は息子の劉恆と共に代へと向かうことができた。

これも薄姫の温厚な性格のお蔭であった。



劉恆が代王になって17年経ったとき、呂后がなくなり呂一族は誅殺された。

大臣の陳平・周勃らは後継者を誰にしようか考えていたが、

外戚の専横を恐れて決めかねていた。

が、劉氏の長老株であった琅邪王の劉沢らが、

「代王の劉恆は性格が温厚な上に、母の薄姫も仁愛善良であり、

呂氏のような外戚の専横を恐れることはないであろう。」

と主張したため、代から劉恆を迎えて天子の位についてもらうことにした。



こうして劉恆は皇帝になり、薄姫は皇太后となった。


一度は奴隷となりどん底を見た女性が、国母にまでのぼりつめたのである。

これも、すべて薄姫の性格のおかげである。

そして、薄姫の息子に対する教育が間違っていなかったからこそ、

劉恆は温厚賢明に成長し、讃えられたのである。



「母性は偉大なり」とつくづく思うのは管理人だけであろうか・・・^-^;;;


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