第四話:義


秦ではこの時、范雎が宰相になっていた。

范雎はかつて魏の中大夫であった須賈に仕えていた。

須賈の供をして斉へ行った際、斉の襄王は范雎を有能だと思い贈り物をした。

主である須賈は、范雎が魏の秘密を漏らした返礼であると激怒しもらった金を返すように命じた。

魏へ帰国すると須賈は宰相の魏斉(魏の公子)にこのことを告げた。

魏斉は激怒し、范雎を逮捕し木の鞭で打たせた。

范雎のあばらや歯は折れた。

范雎はすのこ巻きにされ、便所へ放り込まれた。

当時の便所は排泄物を処理する為に豚が飼われていたり、衛生的ではなかった。

さらに魏斉の客人達が代わる代わる小便を引っ掛けた。

スパイ行為をするとこうなるぞ、という見せしめである。

范雎は辺りが静かになると、番人に賄賂を食らわせ脱出した。

その後張禄という偽名を使って秦へ行き用いられ、王族の実権を奪い昭王の権力を高めた為、

王に近親され応の地に封じられ応侯と呼ばれた。


魏は秦に攻撃されると察知し、須賈を秦への使者に立てた。

須賈は宰相張禄に会って、はじめて范雎が生きていることに気づいた。

しかも最強の国の宰相になっていた。

范雎は須賈に魏斉の首を要求した。首が用意できなければ、魏の都大梁を屠ると宣言した。

魏斉はそれを聞くと趙へ亡命し、虞卿と共に国政を執る平原君趙勝に身を寄せた。

虞卿はその頃、魏斉と知り合い親交を結んだと思われる。


張禄改め范雎は、平原君の下に魏斉がいると嗅ぎ付け手始めに平原君を秦へ呼びつけた。

平原君が来ると、魏斉をよこさなければこのまま秦に抑留すると脅した。

侠客親分でもあった平原君は脅しに屈せず、応じなかった。

そこで趙王に直接文書を出し、魏斉の首を要求した。

平原君の屋敷は厳しく包囲された。

魏斉は夜に紛れて脱出し、虞卿に助けを求めた。

虞卿はとても趙王を説き伏せられぬと考え、身に帯びていた宰相の印を外した。

友人の為に、名誉も富も棄てたのだ。

この状況では魏斉はどこへ行っても助からない、そんなことは虞卿には関係なかったに違いない。

義の為である。


二人は身をやつし各地を転々としたが、魏の信陵君(魏斉の親族)しか頼る相手がいないと考えた。

信陵君を通じて大国楚へ亡命しようとしたのである。


魏の都大梁へ着いた二人は信陵君に面会を申し入れた。

信陵君は情勢を考慮して、すぐには会わなかった。

信陵君は賓客の侯嬴に相談した。

信陵君 「虞卿はどんな男かね?」

侯嬴 「人に知られることも難しいですが、人を知ることも難しいものですなぁ。

虞卿ははじめ草鞋をはいて傘を肩にかけていた身分であったのに、

趙王に面会してただ一度で白璧一対と黄金百鎰を賜りました。

二度目の面会で上卿に任じられました。

三度目にはとうとう宰相に任じられ、万戸侯となりました。

その時、天下の者は争って彼と知り合いになろうとしておりました。

そこへ魏斉が切羽詰って助けを求めると、爵位や財産を何とも思わず

万戸侯の位も宰相の印も擲ち、魏斉を助ける為にあなた様の下へまいりました。

今、あなたは『虞卿はどんなやつだ』と言われました。

人に知られることも難しいですが、人を知ることも難しいですな。」


信陵君はこの侯嬴の痛烈な皮肉に恥じ入り、

すぐさま車を仕立てて城外へ虞卿と魏斉を迎えに行った。

しかしこの時、魏斉はこの世に逃げ場が無いと絶望し虞卿の目を盗んで自刎して果てていた。


虞卿はまだ冷たくなっていない友の亡骸を血の海の中に見たはずである。

虞卿は魏斉を救ってやれなかった。

その時の、虞卿の心の内は史書に記されていない。


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