紀元前262年、秦は趙へ侵攻を開始した。 勝機を見出せない趙孝成王は、将軍楼昌と虞卿を呼び策を諮った。 |
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孝成王 | 「わしは鎧をつけて戦に出ようと思う。どう思うか。」 |
楼昌 | 「無駄です。それよりも重臣を秦に遣わして、講和した方が良いと思われます。」 |
虞卿 | 「楼将軍が講和を勧めるのは、和睦に失敗すれば大敗間違いないからでしょう。 王さまは、秦は趙軍を全滅させると思いますか?」 |
孝成王 | 「うむ。秦は力の限り戦うであろう。」 |
虞卿 | 「では私の策に従ってください。そうすれば講和はうまくいくでしょう。 まず楚と魏へ使者を出し、宝物を見せて近づかせるのです。 両国は王さまの宝を手に入れようと、使者を国へ入れるはずです。 秦はそれを見て、趙や楚や魏が合従したと思い恐れをなすに違いありません。 そういう状況にしておいてから、講和の交渉を進めれば間違いありません。」 |
しかし孝成王は虞卿の進言に従わず、重臣を秦へ遣わし直接講和の交渉を進めさせた。 秦は使者の入国を許可した。 孝成王は再び虞卿に諮った。 |
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孝成王 | 「秦は使者の入国を許可したぞ。おぬしはどう思う。」 |
虞卿 | 「講和は失敗し、必ず軍も敗れます。 范雎(秦の宰相)は使者を重くもてなし天下に示すでしょう。 楚と魏は、わが国が秦と和睦したと思い救援には来ないでしょう。 楚と魏が救援しないと解れば、秦は和睦も蹴るでしょう。」 |
虞卿の言葉どおり、范雎は使者を重くもてなす一方、講和の交渉には応じなかった。 趙は結局長平の一戦で白起に大惨敗し45万人の兵士を失い、首都邯鄲も包囲された。 天下の天秤は一気に秦へ傾いた。 |