第五話:一族その後


馮唐の子孫についての記述は残念ながら無いが、漢書と後漢書では一族の伝が立てられている。

掻い摘んで紹介する。


馮奉世は字を子明といい、武帝の末に良家の子弟として選ばれ郎となった。

昭帝の時、武安県県長となった。

三十余歳の時官職を失ったが、学を志し『春秋』と兵法を修めた。

前将軍龍額侯韓増の推挙によって軍司空令となり、宣帝本始年間に従軍して匈奴と戦った。

戦が止むと再び郎となった。

西域が乱れ、宣帝は使者となり乱を治める人間を探していた。

韓増は再び馮奉世を推した。

乱の中心は匈奴の後ろ盾を頼みにしていた莎車国であり、馮奉世は宣帝の許可を得ずに

西域各国の兵を率いて莎車国を討ち、王の首をあげ長安へ送り届けた。

西域諸国は平定され再び平和が戻り、馮奉世は都へ戻った。

宣帝は光禄大夫・水衡都尉に任じた。

元帝の時代になると光禄勲にまで昇進した。

永光二年(紀元前42年)羌族が隴西郡で叛き、馮奉世は兵を率いてこれを討った。

大いに破り、翌年凱旋し左将軍に任命され関内侯として食邑五百戸と黄金六十斤を賜った。

翌年、病没した。敵を破り強兵を挫く老将として功名高かった。

子供は、男九人・女四人いた。


長女の中山太后馮媛は元帝の昭儀(側室)となり寵愛され、中山孝王を生んだ。

ある時、獣を格闘させる催しがあった際、熊が檻をよじ登り宮殿に入ろうとした。

他の寵姫らはみな逃げたが、馮媛は進み出て立ち塞がった。

それを見た慌てた家臣たちが熊と格闘して殺し事なきを得た。

元帝は感動し、前にも増して馮媛を愛したという。

哀帝が即位すると中国史お決まりのように陥れられ、

無実の罪を自白するよう強要されたが吐かなかった。

しかし逃れられぬと知ると毒薬を飲んで自殺した。

馮媛の妹の馮習も殺された。

一族十七人が殺され、残った宗族は故郷の上党へ帰されたという。


長兄であったと思われる馮譚は父と共に羌を討ったが、すぐに病死した。


馮野王は字を君卿といい、『詩』に通じていた。

元帝の時、隴西郡太守となり評価されて左馮翊となった。

人々に威信と品行を称えられ、大鴻魯となった。

成帝が立つと地方に出され上郡太守となった。

病んで去ったが、黄河の決壊を防ぎ再び琅邪郡太守に任ぜられた。

後、外戚王氏(新を立てた王莽の一族)に職を免ぜられ、数年後に老衰で亡くなった。

子の馮座が関内侯を継ぎ、孫に至ったが、中山太后馮媛に連座して絶えた。


馮逡は字を子産といい、『易』に通じていた。

元帝の建昭年間、復土校尉となり美陽県県令となった。

次第に昇進し、隴西郡太守にまでなった。清廉公平と評されたが四十余歳で亡くなった。


馮立は字を聖卿といい『春秋』に通じていた。

元帝の竟寧年間に五原郡太守・西河郡太守・上郡太守と遷り、

治績は公平廉潔であり馮野王と並び称えられた。

後、東海郡太守となったが低湿地の為にリューマチに罹った。

これを聞いた成帝は馮立を太原郡太守に遷した。

老衰し、在官のまま亡くなった。


馮参は字を叔平といい、『尚書』に通じていた。

慎み深かったが、威儀を修め厳かであり人々から憚られた。

安定郡太守などを歴任したが、病気がちで度々免ぜられた。

後、中山太后馮媛と同腹の姉弟であることから連座させられ、自殺した。

「私の父子兄弟は皆大位となり、封侯に至った。

今、悪名を被って死ぬに当たり、我ら姉弟ともに敢えて自らを惜しまないが、

ただ地下で父に会わす顔がないことが心痛むのだ。」

と言って自殺したという。

娘の馮弁は中山孝王の后であり、二人の子を生んでいた。

死罪は免じられ、庶民として一族と共に上党郡へ帰されたという。


漢書を著した班固は馮一族に関して次のような評を残している。

「『心の憂うる、涕すでに隕つ』とある。馮参姉弟は何と悲しい運命であることよ!」



後漢書にも馮氏がいるので紹介する。

馮衍、字は敬通といった。東観記によると馮野王の孫で馮座の子であるという。

九歳の頃には詩を詠むことが出来、諸書に通じていたという。

王莽の時に馮衍を推薦する者も多かったが、志は大きく行かなかった。

新の天下が乱れ、廉丹が命じられて反乱軍赤眉を討とうとした際に、馮衍を招いた。

馮衍は廉丹に王莽を討つよう説得したが、聞き入れられず廉丹は赤眉に負けて殺された。

後、更始帝に仕え、最後まで光武帝に抵抗した。

更始帝が死んだのを確認するとやっと軍門に降った。

光武帝は馮衍を恨んだが、曲陽県令に用いた。

賊を破り五千人を降したが、讒言に遭い賞されなかった。

その後度々上書したが認められず、不遇のまま郷里へ帰った。

「陵雲の志」と自ら言った馮衍は果たせなかった志を多くの書に変えて著した。

書は後漢書の馮衍伝に多く残されている。

三代皇帝の章帝は馮衍の書を大いに重んじたという。

子に馮豹がいる。


馮豹は字を仲文といい、儒学を好み『詩』『春秋』に精通していた。

章帝の時、尚書郎に任じられ忠勤に励み度々加賞された。

西域を再び平定するに当たり、馮豹は知略があったので河西副校尉に任命された。

和帝の代に西域経営について上奏し、武威太守に遷された。

人々に治績を称えられ、中央へ召され尚書となった。

永元十四年(102年)、官についたまま亡くなった。



史記・漢書・後漢書・各集解を参考に作成


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