第三話:君主の器


しばらくして文帝は馮唐を呼び出した。

文帝 「ご老体はなぜ大勢の前でわしに恥をかかせたのか。

人のいない場所ならいざ知らず・・・」

馮唐 「申し訳ありません。田舎者ゆえ失礼いたしました。」



この後(文帝十四年)、匈奴が大挙して北辺に現れ蕭関(現在の寧夏回族自治区固原市)

朝那(現在の甘粛省平涼市付近)に侵入し、北地都尉の孫を殺害し大量の人民・家畜を奪った。

匈奴兵は彭陽(長安の北約200Km)にまで達し、文帝は戦車と騎兵の大軍を揃え危急に備えた。

このような時に、文帝は再び馮唐を呼び出した。

文帝 「ご老体は、なぜわしが廉頗や李牧を使いこなせないと解ったのか?」

馮唐 「古の帝は将軍を出陣させる際には膝をついて戦車の車輪を回し、

城門より外の事柄はすべて将軍に任せたとのこと。

戦功は将軍がすべて決め、帰還してから報告するだけでよかったのです。

臣の祖父から聞いた話ですが、李牧は国境駐屯中、

陣内の市場から集まった税金は全て部下に振舞う為に使い、戦功も現場で決定し、

宮中の文官達には干渉されませんでした。

全権を任されて勝利・成功のみを求められていた為に、

李牧は智謀の限りを尽くすことができたのです。

李牧は匈奴を追い払い、東胡を打ち破り、秦を遮り、韓・魏を圧倒しました。

その後、趙王遷が即位すると讒言を鵜呑みにし、

李牧を殺し兵卒は逃げ去り、ついに趙は秦に滅ぼされました。」

文帝 「・・・・・。」

馮唐 「今臣が耳にしております処では、雲中郡(漢領域の北辺。現、呼和浩特市付近)太守の

魏尚は、陣営内の税金はすべて兵卒の為に振る舞い、

その上自分の給料をだして五日に一度牛を殺して部下に振舞っていました。

匈奴は噂を聞いて遠くへ逃げ去り、雲中郡へは近づこうとしませんでした。

一度だけ雲中に侵入したことがありましたが、魏尚は戦車隊と騎兵隊を組織し

匈奴に大勝しました。

しかし部下の者達は農民達ばかりでしたので、敵の首の数が六つ合わず

魏尚は裁きにかけられ、爵位を奪われ一年の懲役を科せられました。

臣が思うに、陛下の法はあまりにも細かく、恩賞はあまりにも薄く、

処罰はあまりにも重いと感じられます。

こうしたことから、もし陛下が廉頗や李牧の如き名将を手に入れられても、

決して使いこなすことが出来ないと申し上げたのです。」

文帝 「・・・むむむ・・・・。」

馮唐 「臣は愚かでありまして、陛下のお怒りに触れることを申し上げました。

死罪に当たります。」

文帝 「・・・ご老体の意見、尤もである。

ご老体がわしの目を開かせてくれたのだ。」

文帝は喜び、すぐさま馮唐を使者に立て、魏尚を釈放し再び雲中郡太守に任命した。

さらに馮唐を車騎都尉に任命し、全国の戦車隊を監督させた。

この時、馮唐は六十余歳であったと思われる。


HOME 第四話