第十一話:恩讐


おうは普段から中大夫のちょう錯のことを嫌っていた。

丞相の申と嘉ら大臣たちもちょう錯のことを快く思っている者はいなかった。

中でも袁おうは毛嫌いすること甚だしく、ちょう錯が座に着くと立ち去る有様だった。

一方ちょう錯も袁おうを嫌っており、袁おうが座に着くとちょう錯は立ち去った。

ちょう 潁川の人。弁舌優れ太子(後の景帝)に気に入られる。有能だが峻厳過酷な人柄で、法に詳しく『尚書』にも通じた数少ない一人。太子の「智嚢」(智恵袋)とあだ名された。

文帝が崩御し景帝が即位すると、ちょう錯は御史大夫に出世した。

ちょう錯はすぐさま、袁おうが呉王劉ひから多くの財物を受け取り、

朝廷に報告すべきことを隠していたとして罪に落とした。

しかしその後、詔が出て袁おうは赦され平民となった。


ちょう錯は朝廷を牛耳り始めた。天子と二人きりで密談し、法を制定・改変した。

居並ぶ丞相を始め大臣たちはみな内心穏やかでなかった。

丞相の申と嘉は、ちょう錯が自分の都合で高祖劉邦の廟外壁に穴を開けた不敬を挙げ、

ちょう錯の死刑を求めた。

しかしこれを事前にちょう錯に密告した者があり、ちょう錯は先に景帝に拝謁し事情を語った。

と嘉は御前で間違った上奏をしたことを詫びる羽目になった。後、申と嘉は病気になり死んだ。

またちょう錯は自分が立てた諸侯の領地を強引に削る法案を巡って、外戚の竇嬰と争い不仲となった。

このようにちょう錯は有能であったが、対人関係に問題があった。周りは敵だらけであった。


呉楚七国が強引な領土削減政策に耐え切れず反乱を起こすと、

ちょう錯は部下に「袁おうは呉王から多額の金を受け取り、呉の悪事を隠し呉王は反乱を起こさないと

言い張っていた。しかし今、呉は反乱を起こしたではないか。彼は反乱の内幕を知っている。

取り調べるべきである。」と命令した。

しかし、部下は「反乱が起きる前に取り調べていれば、反乱も防げたでしょう。現在、反乱軍は

長安目指して進軍しつつありあます。こんな時に袁おうどのを取り調べても何の役にもたちませぬ。

それに袁おうどのがこの陰謀に加わっているとは断定できません。」と反論した。

この正論にちょう錯は返す言葉もなく、押し切ることはできなかった。


このちょう錯の動きを袁おうに漏らした者がいた。

無官であった袁おうは恐れ、夜中密かにちょう錯と不仲であった竇嬰に会った。

そして呉王の内情を元呉国丞相の立場から直接景帝に述べたいと頼み込んだ。

竇嬰が参内してこの件を景帝に伝えると、すぐに袁おうは召し出された・・・


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