第五話:淮南王騒動その二


淮南王劉長は遂には棘蒲侯陳奇と結託し、びん越・匈奴と共に反乱を起こそうとした。

しかし事は発覚。淮南王は都へ出頭した。

裁判の結果、淮南王は死罪の上さらし者と決まったが、

文帝は弟を殺すに忍びなく蜀の厳道へ流罪とした。


当時袁おうは中郎将になっていたが、進み出て文帝を諌めた。

おう 「陛下は淮南王の増長ぶりを知りながらも見逃され、

厳しい守役も付けずに放置されました。だから今日のような事態に陥ったのです。

それなのに、今になって急に叩きなおそうとなさいます。

淮南王は剛毅な人柄ですから、檻の中で風雨にさらされ道中で自殺されたら

陛下はどうなさるのです。

『この広い天下がありながら、一人の弟さえ受け入れてやれなかった』という汚名を

こうむられることになります。臣はそれが心配です。」

文帝 「まあまあ。わしは弟を懲らしめてやるだけだ。

悔い改めればすぐにでも呼び戻すつもりだ。

心配せんでもよいぞ。」


こうして袁おうの諫言は取り上げられず、流罪は執行された。

淮南王は檻に押し込められ、護送される途中で絶望した。

「誰がわしを勇者であるなどと言った!もう勇気もでぬ。

わしは驕慢であったために自らの過ちに気づかず、こうなってしまったのだ。」

そして絶食して自殺した。


文帝は食事中に弟の死を知らされた。

左右に人がいるのにもかかわらず、文帝は大声をあげて泣いた。

おうは進み出て、床に頭をすりつけて謝罪した。

文帝 「わしはお前の諫言に耳を傾けなかったからこうなったのだ・・・。

とうとう淮南王を死なせてしまった。」

おう 「過ぎ去ったことはどうしようもありません。悔やんでもしかたがありません。

気持ちを広くお持ちくださいませ。

陛下には崇高な行いが三つおありですから、御名を傷つけるには至らないでしょう。」

文帝 「・・・わしの三つの行いとは?」

おう 「陛下がまだ代王だった頃、薄太后さまが三年間病臥なさっていたことがありましたが、

その間陛下は服も脱がず寝ずに看病し、

薬は必ず陛下が毒味してから太后にさしあげました。

これは孝行者の曾参でもできぬ行いでしょう。

陛下は王でありながら実行なさいました。陛下の孝は曾参をはるかに越えておいでです。

第二に、呂后が死に呂氏を滅ぼした功臣たちが専横していた折、

陛下は代からたった馬車六台で危険極まりない長安へ駆けつけられました。

これは勇者の孟賁や夏育でも及びますまい。

第三に、陛下は長安に入られたあと大臣たちに即位を懇願されたのに対し、

西に二度、南に三度即位を辞退なされました。

かの徳の高い許由ですら一度辞退しただけです。

陛下は許由よりも謙虚で高徳であります。

この度、陛下が淮南王を流罪にされたのは、

その心を矯正し過ちを改めさせようとしてなされたことでした。

役人がついていながらも役目怠慢だったために亡くなったのです。」

文帝 「これから、どうしたらよいのだろう。」

おう 「丞相と御史だけを斬って天下に弁解するのがよいでしょう。

それと、淮南王には三人の子息がおります。

彼らの処遇は陛下の御心一つでございます。」

この問答で文帝の気持ちは和み、すぐさま淮南王の子ども三人を王に立てた。


しかし袁おうが危惧していた通り、人々の目は厳しかった。

数年後こんなはやり歌が広まった。

一尺布、尚可縫。たった一尺の布でも縫うことができる。

一斗粟、尚可舂。たった一斗の粟でもつくことができる。

兄弟二人、不相容。それなのに兄弟二人が許しあえぬとは。


この事件以降、袁おうは朝廷で重んじられるようになった・・・


HOME 第六話へ