第四話:御史大夫


景帝中三年、衛綰は御史大夫に任命された。

翌四年、衛綰は五尺九寸(約1.36m)以上の高さの馬でまだ歯が整っていない馬を

関中から出すのを禁止するように奏上し、これが認められた。

馬は六歳になるまで乳歯が残っているので、駿馬が関外へ出て戦力となるのを嫌ったのか、

対匈奴を意識してのことかわ分からない。(ご存知の方がいればご教授願いたいm(_ _)m)


中六年、衛綰は丞相劉舎(桃侯。項羽の一族)と共に笞刑(むちうち)の緩和改正を行った。

元々笞刑は死刑と等しく、笞刑執行中に死亡しそれでも定められた笞数が終わらず

死体に笞が下される場合が殆どであった。

衛綰らは、「笞の長さは五尺(約1.1m)。根元の太さは一寸(約2.3cm)、先は半寸にする。

打つ場所は尻に限り、打つ者は途中で交代できない。一人打ち終えたあとに執行人を変える。」

と上奏し、これが認められた。

これにより受刑者は身体を全うすることができたという。

しかし司馬遷は

「死刑は重過ぎるが、生刑は軽くなりすぎた為に却って人民は罪を犯しやすくなった。」

と辛辣な批評をしている。


後元年、五月に地震があり続いて七月に日食があった。

丞相劉舎は罷免され、景帝は後任の選定にかかった。
(漢書百官公卿表によると「七月丙午、丞相舍死免。八月壬辰、御史大夫衛綰為丞相。」とある。)

竇太后は一族の竇嬰を丞相にするように迫ったが、

景帝は「あの男は得意になっているだけで、丞相となり威厳を保ち政治をするのは無理でしょう。」

と言って竇太后の横槍を押しのけた。

結局、丞相に選ばれたのは衛綰であった。


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