景帝から信任された衛綰は河間王の太傅に任じられた。 河間献王は景帝の息子劉徳であり、学を好み事実を重んじた人柄であった。 蔵書は朝廷に匹敵するほどであったという。 呉楚七国の乱の時、河間王は呉楚に加担せずに義を守った。 そこで景帝は、衛綰を将に任じ河間の兵を率いさせた。 河間の軍は功績があり、衛綰は中尉に任命された。 三年後の景帝六年、軍功により衛綰は建陵侯に封じられた。 景帝七年、景帝は長男の太子栄を廃し臨江王とし、その母の栗姫の一族を誅した。 景帝は、衛綰は長者であり廃嫡を目の当たりにするのは酷であろうと考え、 休暇を与え家に帰らせた。 その間に都に命じて栗姫らを捕らえ裁かせた。 結局、膠東王徹を太子とした。(後の武帝) ことが落着すると景帝は衛綰を呼び戻し、劉徹の太子太傅に任じた。 衛綰は人を指導するに足る人柄であったようだ。 |