第六話:田仁


田仁は田叔の末子である。他の子らの消息はよくわからない。

田仁は勇壮な男で、衛青の舎人となり匈奴征伐で度々功をあげた。

衛青の推薦で武帝の郎中となり、さらに昇進して丞相長史(秩千石)となった。


ある時、田仁は武帝に上書して説いた。

「郡太守の多くは私利を貪り、三河(河南・河内・河東の三郡)が最も酷い状況です。

三河の郡太守はみな三公の親族であり、まず三河を正し天下の姦吏をいましめるべきです。」

当時、河南・河内郡太守は御史大夫杜周の親族であり、河東太守は丞相石慶の子孫であった。

石氏は二千石を九人輩出し、勢力は甚だ強かった。

杜氏や石氏は田仁に詫びを入れてきたが、田仁は上書を止めなかった。

田仁が三河の郡刺史となると、三河の郡太守はみな獄へ下って死んだ。

都へ帰り武帝に報告すると、武帝は大いに満足し田仁を京輔都尉に任命した。

一ヶ月の後、丞相司直(秩比二千石)に昇進した。


数年後、戻太子(武帝の子)が兵を挙げたとき、丞相劉屈(中山靖王劉勝の子。武帝の甥)

城門を閉じるよう命じたが、田仁は城門を放置して太子を逃亡させた。

御史大夫暴勝之が丞相を詰問したところ、劉屈は田仁が命を聞かず太子を逃がしたと答えた。

田仁は謀反人を見逃した罪で逮捕され、獄に投ぜられ誅殺された。一族もみな誅殺された。



司馬遷は、伝の最後に必ず「太史公曰」という評を載せるが、

田仁にのみ「仁與余善、余故并論之。」(田仁と私は親しかったので、合わせて彼の事跡もここに述べておく)

と但し書きを付けている。

司馬遷が自らの生き様を綴った『報任少卿書』を受け取った任安も

このとき連座で死刑になっている。

田仁・任安と友人を巫蠱の獄で失った司馬遷の思いが

「仁與余善、余故并論之。」に僅かに染み出ていると見るのは考えすぎであろうか。


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