第七話:石家その後



長男の石建は、父が亡くなると嘆き悲しむこと度を越え、

杖にすがってやっと歩けるほどにまで衰弱した。

彼は結局一年後に父の後を追うように亡くなった。


石建が郎中令だったころ上奏文をたてまつったが、それが戻ってきて恐懼して言った。

「私は字を書き損なった!『馬』という字は、足と尾で五本の線がなければいけないのに、

四本しか書いていなかった。私は死罪になるかもしれんぞ。」

補足:この時代の「馬」という字は、という形をしていたと思われる。石建はとでも書いたのだろうか。

石建は何事においてもこのような感じであったという。


また、末子の石慶は石奮の子どもたちの中では、誰よりも細かいことにはこだわらぬ性格であった。

石慶が太僕であったとき、武帝が外出の際に御者としてお供した。

車内から武帝が、「馬車を牽いている馬は何頭か?」と尋ねた。

天子の車の馬は六頭と定められているのにもかかわらず、石慶は鞭をあげて一頭ずつ数えてから

「六頭でございます。」と答えた。

石家のなかで一番ものにこだわらぬ石慶でもこんな風であった。

後に石慶が斉の丞相になると、斉は国中こぞって石慶の家風に傾倒し、

斉は石慶が何も言わなくてもきわめてよく治まった。

そして、斉では石丞相神社が建てられ、彼は生きているうちから祀られた。


石慶は後に中央政府に入り、牧丘侯に封じられ丞相となった。

彼は謹厳かつ慎重で政務処理に優れていたが、

人民の為に献策したり、大計画をたてたりすることはできず、

ただ丞相の椅子に座っていただけであったと司馬遷に評されている。

紀元前103年に亡くなり、恬侯とおくりなされた。


子の石徳は長男ではなかったが、父に可愛がられ牧丘侯を継いだ。

太常にまで登ったが、罪を犯し死刑になるところを罰金を払って赦され、庶民となった。

そののち太子少傅となり、戻太子(武帝の子。劉拠)のおつきとなった。

巫蠱の疑惑で戻太子が江充に讒言され死罪しかないという窮地に追い込まれると、

太子は石徳に相談した。石徳は始皇帝の子・扶蘇の故事を出し、江充を殺すように勧めた。

太子は江充を殺し、兵を率いて丞相府に乱入した。丞相劉屈は遁走し、丞相の印をなくした。

しかし武帝が「太子は叛いた」として兵を動員したため、賊軍として攻撃され惨敗した。

石徳は一軍を率いていたが、馬通(後漢の将、馬援の祖先)の軍に打ち破られ捕えられた。

石徳のその後は書かれていないが、当然死刑になったのであろう。




巫蠱の獄、最後まで簡単に触れておく。

戻太子・石徳らが率いる兵は激戦したものの、死傷者数万人を出し惨敗した。

『漢書』には、「長安城の路傍の溝に人の血が流れ込んだ。」と記されているほどである。

戻太子は身一つで逃れ、湖県の泉鳩里の貧しい家に匿われた。

その家の主人は太子を憐れみ、靴を売って密かに太子を養った。

しかし居場所が発覚し、役人が太子を捕えようとした。

戻太子は観念し、室に入り戸を閉めて首を吊って死んだ。

貧家の主人は太子を守ろうとして格闘して殺され、戻太子の二人の子もあわせて殺された。

その数週間後、大きな地震が起きた。人々は皆顔を見合わせたことだろう。


後に武帝は、江充が讒言を繰り返し無実の人々を殺したことを知った。

あわせて息子の無実をも知った。

老いたる武帝は「思子宮」を建立し、太子の死んだ湖県に「帰来望思之台」を築いた。

天下の人々は皆太子の死を悲しんだ。


歴史は不思議なもので、この戻太子の孫で、唯一生き残った赤子が成長し、

後の前漢中興の名君・宣帝となるのである。


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