第五氏


 第五倫 その2


後、たまたま明帝が囚人の調査を行ったときに赦免され、故郷長陵に帰った。

倫は自ら田を耕し、世間と交わらなかった。


数年して巴郡宕渠県の令に任命された。

倫は宕渠県で下っ端役人の玄賀を抜擢した。後に玄賀は九江郡太守・沛郡太守となり、

清廉と称えられどの土地もよく治まった。最後は大司農になった。

第五倫は宕渠県令を四年勤めたあと、蜀郡太守に栄転した。

蜀の土地は肥沃で、民はみな豊かであった。

蜀郡では下っぱ役人でも千金の財産があり、みな贈賄で立身出世しようとした。

そこで第五倫は金持ちの息子をすべて免職にし、孤児貧民でしっかりした者を下役人とした。

このことで贈賄は途絶え、郡事務は大いにはかどった。

また、この時抜擢された者の多くは九卿や二千石となり、人々は「人を見る目がある」と誉めた。


倫は蜀郡太守を七年勤めたあと、都に召され司空(三公)となった。

当時は章帝の世であったが外戚馬氏がのさばっており、

これを苦々しく思った倫は馬氏を抑えるよう度々上奏したが、取り上げられなかった。

馬氏が失脚した後、同じく外戚の竇氏がのさばった。

倫は再び外戚の害を説いた上奏文を出したが、やはり取り上げられなかった。



倫は皇帝には忠義を尽くし、遠慮なく意見した。息子らが止めようとすると、一喝して追い出した。

倫自身は峻厳で愚直であったが、事務官僚が苛酷であることを憎んだ。

また、下役人が有益な意見書を送ってきた時は、再び封をして皇帝へ上奏した。
(自分の手柄にしない、私心がない、という意味)

司空の席にあったとき「貞白」と称され、前漢の貢禹に譬えられた。

しかし学問芸術に疎く教養が浅く、服装や行動に威が備わっていなかった為、

人に軽蔑されることもあった。

ある人が第五倫に聞いた。

ある人 「貴殿にも私心がおありですか。」

第五倫 「・・・昔、千里を駆ける馬をくれるという人がいた。しかし、その申し出は断った。

それからというもの、三公の役所で人を採用する度にその馬が忘れられない。

しかし、馬をくれると言った人は採用しなかった・・・。

ある時、兄の子が病気になった。

一晩に十回見舞ったが、自宅へ帰ると熟睡した。

しかし自分の子が病気になると、見舞いには行かないものの一睡もできなかった。

この有様では、私心が無いとは言えぬ。」

第五倫は老病を理由に何度も引退を願った。

元和三年(86年)に免官となり、終身二千石の俸禄を受けることとなり、

銭五十万公邸一棟を賜った。

その後、数年して逝去。八十余歳であった。詔書が降り、副葬品等を下賜された。


子に第五頡(字は子陵)、曾孫に第五種(字は興先)があり、

頡は中常侍樊豊の讒言を許さず、種は中常侍單超一族の専横を許さず、

いずれも廉直で名高かった。


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