第五訪 第五訪は字を仲謀(三国呉の孫権と同じ字)といい、他の田氏と同じく長陵の人である。 第五倫の一族で孫の世代にあたる。 幼い頃父母を失い、貧中で育った。人に雇われて田を耕し、兄夫婦を養った。 暇さえあれば学問に打ち込んだ。 郡に仕えて功曹となり、孝廉に推され蜀郡新都県の令となった。 県政は正しく行われ、隣県も新都県のやりかたに従い、人口は十倍になった。 後に張掖郡太守となった。 ある年に飢饉が起こり、粟が一石数千銭に高騰した。 第五訪は郡倉庫を開け、窮民に穀物を与え救おうとした。 役人達はみな、勝手なことをして皇帝に譴責されることを恐れ、止めるよう第五訪に進言した。 しかし第五訪は言った。 「もし陛下に報告してその返事を待つなら、民を見捨てることになる。 太守の喜びというものは、一身を百姓に捧げることにあるのだ。」 そして倉を開けさせ穀物を民に分け与えた。 時の皇帝は順帝だったが、勅書を出して良い行いだと褒めた。 このことにより、張掖郡は無事でいることができた。 第五訪は数騎を従えて各地の田畑を巡り、民を励ました。 その年、穀物は一石百銭となる程の豊作となった。 官民みな富み、盗賊らは張掖郡から姿を消した。 南陽郡太守(上の地図だと宛一帯。光武帝の故郷で後漢発祥の地といえる)に転じ、官を去った。 その後、護羌校尉に任命された。辺境の者達は彼の威信に服した。官に就いたまま亡くなった。 |