第五氏


 第五倫 その1

第五氏で、後漢書に最初に登場するのは第五倫(字は伯魚)である。

倫は若い頃から義侠の振舞いが多く、狷介であった。

王莽の新最末期、度々賊が蜂起した。一族の者は賊に加担したが、倫だけは加担せず、

地勢を利用して砦を築き、人々を励まし自身は強弓を引絞って賊に応戦した。

銅馬・赤眉らの賊が数十回攻め寄せてきたが、第五倫の砦を落とすことはできなった。


後漢光武帝の時代、長安の市の監督となり偽造貨幣や不正取引を一掃し人々に心服された。

後に孝廉に選ばれ、阜陵王劉延の医工長(主に医薬を司る。比四百石)として淮陽国へ赴任した。

阜陵王に従って都に参勤した際、光武帝に政道について意見し、いたく気に入られた。

その翌日、光武帝に呼ばれ夕方まで語り合った。

光武帝は戯れに、

「噂では役人時代に女房の父を鞭打ったとか、従兄の家へ行って飯を食わなかったと聞くが。」

と聞いた。第五倫は、

「臣は三度妻を娶りましたが、いずれも妻の父は死んでおりました。

また若い頃から飢餓や戦乱に遭いましたので、滅多に人の家で飯を食べることはありません。」

と答えた。光武帝は大笑した。


この後、第五倫は扶夷の県令に任命され、任地に到着する前に会稽郡太守に栄転した。

第五倫は二千石の官にありながら自分で秣を切って馬を飼い、妻は自分で飯を炊いた。

禄の米を受け取ると必要な分だけ残してあとは安く売り、その金は貧民に分け与えた。

会稽郡では淫祀が多く占いが盛んであった。

牛を食う者で神に牛を供えない者は、病気になり牛のように鳴いて死ぬと信じられていた。

そのため民は牛を殺して神を祀り、民は窮乏した。

歴代の会稽郡太守はこれを禁止することができなかった。

第五倫は、鬼神の名を騙って民を脅す巫らを厳重に取り締まり、

牛を殺して祀る者がいれば処罰した。

はじめ民は処罰を恐れ第五倫を呪詛し、根も葉もない醜話を言い触らす輩まで出た。

第五倫はますます厳しく取り締まり、処罰した。

しばらくすると淫祀は完全になくなり、おかげで民は楽になった。


数年後、法に触れ都へ召喚された。

会稽の民は第五倫の馬車にとりすがり泣き叫んで後を追った。

一日に数里しか進めず、途中でこっそり舟に乗って都へ向かった。

会稽の民はそれを知ると再び後を追った。

第五倫は廷尉のもとに出向いたが、廷尉の役所に千人以上が押しかけ倫の無罪を上書した。

明帝は困り、「梁松と会稽太守のことで上奏する者は受け付けるな。」と命じた。
(梁松は讒言し馬援を陥れた。後に馬援が無罪であることがばれ梁松は追及される)


HOME その2