劉敬の策によって強制移住させられた豪族に田氏がいる。 劉敬は強制移住させるべき旧貴族として「斉の田一族、楚の昭・屈・景一族」とあげており、 その影響力は無視できないものだったのだろう。 田氏は陳国王の子・陳完を始祖として始まる。 陳国が乱れると陳完は斉に逃れ、「陳」と音の近い「田」に姓を変えた。 後漢書集解では、「田という土地を領地としたため姓にした」とある。 子孫の田乞・田常は主君である簡公を殺し、田和は主君を追いやり斉侯となった。 後、秦が強勢となり、六国を次々と滅ぼしていったが、 斉は秦に恭順の姿勢を貫いていたので、六国の中では最後まで残り、 ほぼ譲渡のような形で国を明け渡し斉は滅亡した。 秦二世の時代に中国は大いに乱れたが、斉では田一族が反乱を起こした。 田横は斉の宰相となり漢の韓信と戦い、破れて海中の島に客五百とともに隠れ住んだ。 劉邦は強制移住計画の一環だったかどうかは解らないが、田横を都へ呼び寄せた。 しかし、田横は旧罪があるからといって自殺して果てた。(詳しくは田横の伝を参照されたし) 他の田氏はおとなしく左馮翊長陵県(高祖の陵がある)へ移住したらしい。 第一田氏、第二田氏、と区別の為に姓を変えたようである。 後漢書を見ると、第八氏と第五氏が載っているので紹介する。 ちなみに三国蜀で活躍した法正(字は孝直)も田一族である |
第八氏 後漢書集解によると、斉王田広(韓信に捕らえられた)の弟・田英が第八氏を名乗ったようである。 王莽の頃、第八矯が講学大夫(?)になっている。 |