第六話:項伯の義


三世を降した劉邦は有頂天であった。


世の中には上司にあからさまに阿諛(おべっかを使う)する者もいる。

普段の劉邦なら見抜いていた阿諛も、このときは浮かれていて見抜けなかった。


そう(姓なのか、単に「つまらぬ男」を指すのか不明)が、劉邦に媚を売って言った。

「今、聞くところによると、章邯は項羽に降り雍王という称号を貰ったとのこと。

項羽は章邯を関中の王にしようとしております。

彼らがやってくれば、沛公はこの地を領有することはできないでしょう。

秦の富は天下の富に十倍し、地形は守るには最適です。

急遽、函谷関を閉じ、兵を派遣して守らせるべきです。

項羽らを関中に入れず、その間に兵を徴収すべきです。」

劉邦はこれを間に受けてしまい、兵を派遣して函谷関を閉じてしまった。


項羽はこの時点で、まだ友軍である。さらには劉邦の上官でもあった。

この劉邦の失策は隠しようのないものであった。

項羽は激怒し黥布に函谷関を攻めさせ、これを落とした。さらに進撃し、鴻門に至った。

ここに陣営を築き、翌朝には劉邦を軍もろとも粉砕するつもりであった。

劉邦はようやく自分のしたことの不味さに気付いた。が、もう為す術が無かった。

項羽に殺されるのを待っている、そんな馬鹿な事態となった。

こうなってしまっては張良といえども、もうお手上げであった。

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項羽軍のなかに、密かにこの攻撃を心配してか、憂鬱そうな男がいた。

項伯である。

彼は、まだ秦が盛んだった頃に張良に匿われ、命を助けてもらったことは前に述べた。

その後、甥項羽の軍に入り、左尹という官職まであった。

項伯は、「子房に恩返しもしていないのに、彼は劉邦もろとも死んでしまう。」と思い悩んだ。

そして、甥から翌朝攻撃開始との命を受けると、彼は身分も財産も捨てて張良を救う決心をした。

そして深夜、項軍からただ一騎、抜け出した。


誰もが自分を助けてくれなかったのに、ただ一人自分を救ってくれた子房。

その子房にやっと報いる時が来た。二人で身分も財産を捨てて姿を晦まそう。

さあ、馬よ急げ・・・。

項伯は馬上ただ一人、そう思った。


張良は驚いた。まさかこんな夜中に項伯がたった一騎でやってくるとは露とも思わなかった。

そしてすべてを投げ捨てて自分を救いに来てくれた項伯に、言葉も出なかった。


項伯 「もうだめだ。沛公は、朝、死ぬ。

羽のヤツは、早朝に沛公の軍を攻撃するよう命令を出した。

項軍は四十万だ。沛公の巻き添えで犬死などするな。

子房どの、今すぐ私と共に逃げよう。」

張良 「・・・伯どの。お気持ちは嬉しい・・・。

しかし、私は韓王のために沛公に従ってきた。

韓王は沛公の元にいる。その沛公はいま危急な事態にある。

逃げ去るのは不義だ。

この事態を沛公に申し上げないわけにはいかぬ。」

項伯 「・・・。とにかく、子房どのが助かればよい。」


張良は、一人劉邦の寝室に入った。

そしてすべてを告げた。

劉邦は今更ながら驚いた。張良は少し呆れた。

張良 「一体誰が項羽を関中にいれぬという策を立てたのです。」

劉邦 「そ、そう生が立てたんだよ。

関を塞いで項羽が入れぬようにすれば、ワシが関中の王になれると申したのだ。

だからワシはその意見を受け入れたのだ。」

張良 「・・・・・・・・。

では、考えてみてください。

項軍四十万、我が軍十万。これであの項羽に勝てると思いますか。」

劉邦 「・・・・・・・・・。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・無理じゃ。

子房、・・・・・・どうしよう。」

張良 「項伯に頼んで、『沛公は項羽どのに叛くつもりはまったくありません』と

伝えてもらうしかありませんな。」

劉邦 「項伯?? 項羽の叔父ではないか、

子房はなぜ彼を知っている?」

張良 「秦の時代、彼と交遊しました。

項伯が人を殺して追われたとき、私が彼を救いました。

今、事態が急を告げたので、やって来て私に告げてくれたのです。」

劉邦 「子房と項伯はどちらが年長だ?」

張良 「項伯どのが年上です。」

劉邦 「では、私の兄になってもらおう。

早速呼び入れてくれ。」


張良は急いで自分の陣営に戻った。

張良 「頼む。沛公に会ってくれ。」

項伯 「勘違いなされるな。私はあなたを救いにきたのだ。」

張良 「今、私を救うには、沛公に会っていただくほかありません。」

項伯 「わかった。子房どのがそこまで言われるなら会おう。」


項伯は陣舎に入り、劉邦に会った。

そこにはすでに宴席が用意され、義兄弟の儀が始まろうとしていた。

項伯は意外な展開に度肝を抜かれた。が、子房を救えるのなら、と思い直した。

劉邦は項伯に大杯の酒を勧め、限りない年寿を祝い、姻戚となる約束をし、恭しく言った。

劉邦 「わたくしは関中に入ってから私有物にしたものは一つもありません。

庫という庫を封印して、項将軍のご到着を待っておりました。

部将を派遣して函谷関を守備いたしましたのは、

治安の為に盗賊の出入を禁止することと、非常事態に備えただけであります。

どうして項将軍に叛いたりいたしましょうか。どうか、あなたからも

わたくしが将軍の徳に叛くことがありえないことをお口添えください。」

項伯 (これは・・・・俺に命乞いせよと言っているのか・・・。まあ、子房が助かるなら何でもよい・・・。)

わかりました。しかし、沛公ご自身で項羽に謝罪しなければ駄目でしょう。」

劉邦 「承知しました。」


項伯は退出すると、張良に事の顛末を語った。張良は深々と頭を下げた。


項伯は馬を飛ばして鴻門へ帰った。

すぐさま項羽に会い、劉邦の言い分をすべて伝え、さらに付け加えて言った。

「沛公がはじめに函谷関を破り、関中を占領しなければ、

将軍はこんなに易々と関中に入ることは出来なかったでしょう。

今、沛公には大功がありますのに、これを撃つのは義に背きます。

その功を評価し、厚遇なさるのにこしたことはありません。

朝、沛公がここへ謝罪に来ます。話を聞いてやってから決断してくださいませ。」

項羽は、この叔父の言葉に動かされ、劉邦と会うことにした。



こうして張良と項伯の奇縁のお蔭で、劉邦の命は首の皮一枚で繋がったのであった・・・



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