張蒼が丞相になってから、田の租税廃止、肉刑の廃止など、後世に伝わる善政が行われた。 文帝の発案とされているが、張蒼らも絡んでいたに違いない。 文帝十四年、魯の公孫臣という者が上書して言った。 「五徳は循環してまた始まりに戻り、王朝にもそれぞれ五徳があり交代します。 よって現在は土徳にあたります。(張蒼は秦と同じ水徳とした) 土徳であることは、いずれ黄竜が現れることによって解ります。 今まさに暦・服・制を改める時なのです。」 文帝はこのことを張蒼に下げ渡し、協議させた。 張蒼はこの意見は正しくないとし、却下した。 翌年、黄竜が天水郡成紀県(現在の甘粛省)に現れた。 そこで文帝は公孫臣を召しだして博士とし、 土徳に基づいて暦・制を起草させ後元年(中国で初めての年号となる)とした。 張蒼は自ら卑下し、病と偽り、老いぼれたと自称した。 ちょうど張蒼が中候(賓客送迎役)に推挙した者が酷い不正を働いた。 文帝は張蒼を責め、遂に張蒼は病気ということで丞相を免ぜられた。 |