張蒼は丞相を罷免された後、口中の歯が全て無くなった。 ものが食べられず乳を飲み、いつも婦人が乳母となって哺乳した。 妻妾は百程おり、一度妊娠すると二度と愛されなかった。 景帝の五年にこの世を去った。文侯と諡された。 享年百余歳。 この時代では異例の長寿であった。 張蒼には十八篇の著作があり、陰陽・律暦について述べたのもであった。 漢書藝文志の陰陽二十一家に見える『張蒼十六篇』がこの著書であろう。 北平侯は子の張奉が継いだ。八年して亡くなり、康侯と諡された。 奉の子、張類があとを継いだ。 張類は諸侯の葬儀の際遅れて席についた為、不敬罪に問われ、 武帝の建元五年に北平侯を免ぜられた。 張蒼の父は五尺(1.15m)に満たない小男であったが、 張蒼は八尺(1.84m)あり侯となり丞相となった。子の張奉もまた八尺ある大男であった。 蒼の孫の張類は六尺(1.38m)の小男であった。 宣帝の元康四年、高祖功臣の子孫を復家させた際、 張蒼の玄孫の子であった張蓋宗が家名再興を許された。 司馬遷は張蒼をこう評した。 「張蒼は博識と音暦で漢の名宰相となった。 しかし賈誼や公孫臣の説を採らず、年始や服色について正しい意見に従わずに 秦の暦をそのまま採用したのは何としたことか。」 壺遂らと共に太初暦を作った司馬遷にしてみれば、張蒼の姿勢は歯痒かったのであろう。 |