第六話:蒼年百有餘歳而卒


張蒼は丞相を罷免された後、口中の歯が全て無くなった。

ものが食べられず乳を飲み、いつも婦人が乳母となって哺乳した。

妻妾は百程おり、一度妊娠すると二度と愛されなかった。

景帝の五年にこの世を去った。文侯と諡された。

享年百余歳。

この時代では異例の長寿であった。


張蒼には十八篇の著作があり、陰陽・律暦について述べたのもであった。

漢書藝文志の陰陽二十一家に見える『張蒼十六篇』がこの著書であろう。



北平侯は子の張奉が継いだ。八年して亡くなり、康侯と諡された。

奉の子、張類があとを継いだ。

張類は諸侯の葬儀の際遅れて席についた為、不敬罪に問われ、

武帝の建元五年に北平侯を免ぜられた。


張蒼の父は五尺(1.15m)に満たない小男であったが、

張蒼は八尺(1.84m)あり侯となり丞相となった。子の張奉もまた八尺ある大男であった。

蒼の孫の張類は六尺(1.38m)の小男であった。


宣帝の元康四年、高祖功臣の子孫を復家させた際、

張蒼の玄孫の子であった張蓋宗が家名再興を許された。



司馬遷は張蒼をこう評した。

「張蒼は博識と音暦で漢の名宰相となった。

しかし賈誼や公孫臣の説を採らず、年始や服色について正しい意見に従わずに

秦のせんぎょく暦をそのまま採用したのは何としたことか。」

壺遂らと共に太初暦を作った司馬遷にしてみれば、張蒼の姿勢は歯痒かったのであろう。


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