第二話:大沢郷


秦代、あまりにも貧しく税金を納められない人々は

納税を免除される代わりに里門の左側に住まわされた。

始皇帝が死に二世皇帝が即位すると、数万人規模の軍事訓練を行い辺境の異民族に備え、

さらに阿房宮造営で納税免除の貧民をも人夫として大々的に徴発した。

莫大な人夫の食料・牛馬の餌が必要となり、人民は疲弊した。


二世皇帝元年七月、徴発された貧民九百人が辺境守備の為漁陽へ向かった。

どこから漁陽へ向かったのかははっきりしないが、徒歩1000Kmに迫る旅程だったはずだ。

900人もの食料をどう調達したのかはっきりしないが、調達困難だったのは想像に難くない。

生きて漁陽に到着できるのか、行軍のはじめから不安にまみれたものであったに違いない。

そんな貧民達の中から陳勝と呉広は一隊の頭に選ばれた。



一行は行軍してき県の大沢郷で宿営した。

ちょうどこの時大雨が降り、道が崩れ進めなくなった。

日数を計算してみると、とうてい期日に間に合わない。

秦法では、期日に遅れる者は斬罪であった。


陳勝・呉広らは行くも死、帰るも死となった。


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