文翁〜蜀の学問の礎を築いた男〜

正史『三国志』蜀志を読むと学者が多いのに気づく。

なかでも杜周杜許孟來しょう郤傳第十二は学者だらけで、杜微・周羣・張裕・杜瓊・尹黙・

せん・陳術・しょう周らの事跡がこまごまと書かれている。変人が多いのは学者肌ゆえか・・・。

また陳寿は、秦みつ・張裔を始め李密・何宋らも学問に通じていたと特筆する。

なぜ蜀にはこれほどまでに学問が栄えていたのだろうか。

そこで、今回は蜀に学問を根づかせた男を紹介したいと思う。



秦末から楚漢動乱を経て文帝の末年になると、蜀は平和を謳歌し人々は豊かになった。

しかし一方では、学校はだんだんと衰えてゆき学問は廃れていった。

庶民の間ではイレズミを入れることが流行っていた。(当時、黥は蛮夷の風俗であった)

そんな蜀へ蜀郡太守の肩書きを持ってやってきたのが文翁である。


文翁は廬江郡舒県出身の人で、若くして学問にうちこみ『春秋』に精通した。

穏やかで人を愛すること甚だしく、人を良い方向に導こうと教育に熱心であった。

始め彼は郡の役人となり、能力を認められて次第に昇進し蜀郡太守となった。

蜀は前にも述べたように蛮夷の風があったので、

文翁はここを教導しようと思い学校を建てて郡県の役人の子弟を就学させ、

郡内の役人の中でも才能があると認めた張寛ら十数人を選び、

長安へ派遣して博士の下について学業を受けさせ、律令を学ばせた。

張寛らが学問を修めて蜀へ戻ると、彼らをみな郡の高官につけた。

また学舎を成都の市中に建て、張寛らを教師として広く生徒を募った。

学舎に入る生徒には兵役・夫役を免除し、成績優良の者は役人に任命した。

文翁は巡察へ出かける際、学舎の生徒で品行良く経術に明るい若者を随行させ、

伝令として郡県の門を出入させたため、彼らの父母はこれを非常なる光栄とした。

数年後には人々は争って子弟を学舎に入れるようとし、

金持ちは金銭をはたいてまで学舎に入れようとしたという。


これによって蜀地方は大いに感化され、学問水準は儒教の聖地魯や斉と肩を並べ、

蜀から長安へ遊学する者は絶えなかった。

景帝は文翁の功績を讃え、全国に郡国に学官を立てた。

これはすべて文翁が教育の重要性を唱えたことが始まりであった。



後、文翁は蜀で生涯を終えた。

民は皆彼の死を悲しみ、祠を建て祭祀が絶えなかったという。


文翁に見出された張寛は武帝に召し出され博士となり、天文に詳しく災異を明らかにし、

官位は侍中・揚州刺史にまで登った。


出典:漢書循吏傳第五十九、華陽國志蜀志、三国志蜀書杜周杜許孟來しょう郤傳第十二

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