陽武の街は古代から栄えた周都・洛陽と魏都・大梁の中間に位置し、黄河の流れが陽武を潤し続けた。 しかし、黄河がひとたび氾濫すると上流から流れてきた黄砂が土地に堆積し、 洪水が引いたあとは黄砂の堆積で奇観を成した。堆積した黄砂は良い畑作地を人々に提供した。 しかし、相次ぐ戦乱のためかまだ開墾されていない荒地も陽武には多かった。 この街のはずれの戸(こゆう)郷に、よく太り背が高く容貌秀でた青年が住んでいた。 陳平である。 彼の家は非常に貧しく、田畑もほんの僅かしかなかった。 陳平の両親は幼い頃に亡くなり、兄の陳伯とずっと二人暮しだった・・・ 余談だが、 陳平がまだ背も小さい頃、陽武の街を始皇帝の大行列が通った。 このとき陽武の街を震撼させる事件が起こった。 街外れの博浪沙で始皇帝が襲われたのだ。襲われたと言っても、石に襲われたのだ。 何者かが始皇帝を暗殺しようと、始皇帝の乗る馬車に巨大な岩を当てようとしたのである。 しかし、岩は副車に当たってしまい暗殺は失敗に帰した。 始皇帝は激怒し、天下に号令して犯人を探し求めたがついに見つからなかった。 この事件の主犯格は名を変えて潜伏し、 後に劉邦に従い高祖三傑の一人となり陳平と共にその智謀を謳われる程の人物になった。 そう、あの大軍師張良である。 陳平の記憶の中にこの出来事はずっと残っていたであろう。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 陳平はやがて読書を好むようになった。 それを見た兄の陳伯は「弟を師の下で勉強させてやろう。」と陳平に塾通いをさせ、自分が畑を耕した。 陳平は好きなだけ勉学に集中することができたが、家業を一切手伝わなかった。 陳平が「兄に悪い」と思って家業を手伝おうとすると、兄が「お前は勉強しろ」と止めたからである。 陳平が師匠についた頃、兄の陳伯は妻を娶った。 陳平にとっては、はじめて一緒に暮らす異性である。 もともと好奇心が強かった性質だったが、 一青年として異性の嫂に興味を持ち彼女を好きになってしまったらしい。 しかし、嫂は陳平を邪魔者扱いし嫌っていた。 友人に「義弟さんは、家が貧しいのに何を食べてあんなに太っているのですか?」と聞かれた嫂は、 「ぬかや米のくずしか与えてません。家業を一切手伝わない義弟なんていない方がましですわ。」 と憎憎しげに言ったという。 しかし、陳平の嫂に対する慕情は募るばかりであった。 やがて理性が切れた陳平は兄の目を盗み嫂と通じてしまった。 兄の陳伯はそのことを後で知ったが、弟を一切責めなかった。 逆に、弟を邪険に扱った嫁を追い出し、離縁した・・・ こうして、温かい大きな心を持った兄を父代わりにして陳平は大きく成長していくのだった。 |