十二体の巨像の行方



以前、掲示板のほうでryoさまが「十二体の巨像って、すごく引っかかるのですけど」

と仰られていたので、及ばずながら調べてみました。

以下は、それを書き改めたものです。



始皇帝の造った巨像、十二体のうちの十体は、後漢の初平元年(190年)に、

董卓が鋳潰して銭にしてしまいました。

残りの二体は、景初元年(237年)三国魏の明帝(曹叡)が無謀にも洛陽に運ぼうとして、失敗。

重すぎて運べなかったのです。仕方なく、覇城という所に放置されます。

ちなみに、この景初年間の銘が入った銅鏡が1986年に大阪府和泉市黄金塚古墳から出土しています。
三角縁神獣鏡ですね。


後に、五胡十六国の後趙(319-351)の石虎がぎょうというところに移し、

さらに後趙の後に成立した前秦(351-394)の苻堅が長安に戻しています。


そのあとは、手元の資料ではちょっと解りません。

知っている方おられたら掲示板でお教えください。


この銅像。最後は二体になっちゃったみたいですけど、時の権力者に利用されて

力の誇示というかなんというか…。

巨像は元々、始皇帝が二度と反乱が起きないようにと天下の兵器という兵器を没収し、

それを鋳潰して造ったそうです。それがお金になってしまうとは…。

皮肉です。


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