紀元前195年、高祖劉邦が死ぬと、叔孫通が太傅を務めた劉盈(恵帝)が即位した。 先帝劉邦の陵・廟の儀式について詳細に知っているのは叔孫通しかおらず、 再び彼は太常に遷った。 叔孫通は王朝創始者の廟の礼法を制定した。また必要に応じて宮中儀礼も制定していった。 彼が著した礼法書は、十二篇または十六篇あったといわれているが いずれも早くに散逸して現代に伝わっていない。 そして『漢書』礼楽志によれば、礼法が完備されないうちに叔孫通はこの世を去ったという。 話は変わるが、彼の定めた礼法で現在の日本でも現存するポピュラーな礼がある。 お墓にお供え物をするときに、ミカンや桃など果物を供える風習である。 春うららかなある日、叔孫通は恵帝に進言した。 「古えには春に果物を祖先の廟に奉げる儀式がありました。 ちょうど今は桜桃の熟す季節です。お供え物に最適ではないでしょうか。 どうか、陛下がお出ましになったとき、桜桃をご先祖の廟にお供えくださいませ。」 恵帝は素直な人柄だったので、このうるさい教師の言うことをすぐに聞き入れ、 父・劉邦の廟に自ら桜桃を供えた。 様々な果物をお供えする風習は、これから始まったという。 司馬遷は彼を批評して言う。 「彼は時代に望みを託し、何が必要とされているかを鋭く見抜き、 礼法を制定し、身の進退は時勢の移り変わりに合わせた。 その結果、漢帝国の儒者の宗家たる地位を占めた。 老子は、最も真っ直ぐなものは曲がっているように見えると言っている。 また、「道」は曲がりくねったものである、とも言っている。 老子の言う『曲がりくねっている道』とは、彼の生き方のことなのだろうか・・・。」 |