第七話:お供え物には果物を


紀元前195年、高祖劉邦が死ぬと、叔孫通が太傅を務めた劉盈(恵帝)が即位した。

先帝劉邦の陵・廟の儀式について詳細に知っているのは叔孫通しかおらず、

再び彼は太常に遷った。

叔孫通は王朝創始者の廟の礼法を制定した。また必要に応じて宮中儀礼も制定していった。

彼が著した礼法書は、十二篇または十六篇あったといわれているが

いずれも早くに散逸して現代に伝わっていない。

そして『漢書』礼楽志によれば、礼法が完備されないうちに叔孫通はこの世を去ったという。



話は変わるが、彼の定めた礼法で現在の日本でも現存するポピュラーな礼がある。

お墓にお供え物をするときに、ミカンや桃など果物を供える風習である。


春うららかなある日、叔孫通は恵帝に進言した。

「古えには春に果物を祖先の廟に奉げる儀式がありました。

ちょうど今は桜桃の熟す季節です。お供え物に最適ではないでしょうか。

どうか、陛下がお出ましになったとき、桜桃をご先祖の廟にお供えくださいませ。」

恵帝は素直な人柄だったので、このうるさい教師の言うことをすぐに聞き入れ、

父・劉邦の廟に自ら桜桃を供えた。

様々な果物をお供えする風習は、これから始まったという。



司馬遷は彼を批評して言う。

「彼は時代に望みを託し、何が必要とされているかを鋭く見抜き、

礼法を制定し、身の進退は時勢の移り変わりに合わせた。

その結果、漢帝国の儒者の宗家たる地位を占めた。

老子は、最も真っ直ぐなものは曲がっているように見えると言っている。

また、「道」は曲がりくねったものである、とも言っている。

老子の言う『曲がりくねっている道』とは、彼の生き方のことなのだろうか・・・。」




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