第三話:陽春之曲、和者必寡



呂后が死ぬと陳平・周勃らが呂氏を誅滅し文帝を擁立した。

辟陽侯審食其は呂后に寵愛され権力をほしいままにしたのにもかかわらず、殺されなかった。

これはひとえに平原君朱建と陸賈の活躍のお蔭であった。


文帝が即位すると、呂氏に怨みを持つ淮南脂、劉長(文帝の異母弟)が審食其を殴殺した。

文帝は朱建が審食其を助けたことがあると聞き、役人をさしむけ捕えて尋問することにした。


朱建は、役人が家の門前まで来たと聞くといきなり自刎しようとした。

朱建の息子たちや、捕えにきた役人までがこれを止めた。

息子 「この事件の結果はどうなるか決まっておりません。なぜ早まって自殺なさいます。」

朱建 「わからぬのか。

わしが死ねば禍根は絶たれ、お前たちの身に災いは及ぶまい。」


そう言うと朱建は自らの首をかき切って死んだ。

文帝はこの報を聞き、「わしには殺す気はなかったのに。」と残念がった。

そこで朱建の息子の一人を召し出して中大夫(郎中令の属官。天子の諮問官)に任命した。

彼はその後、使者として匈奴へ行った。

単于(ぜんう。匈奴の王者)が無礼な態度をとったため、大声で単于を責めたてて罵り、

そのために彼は匈奴の地で死んだ。


朱建の残った息子は、司馬遷の親友となった。



『漢書』を著した班固は言う。

「朱建始名廉直、既距辟陽、不終其節、亦以喪身。」

朱建は、はじめ廉直で名声があったが、後に審食其を庇って助け、その節義を全うしなかった。

そして、やはり身を滅ぼしてしまった。


管理人は、班固の評に同感ではない。

むしろ、季布や朱家といった人々と肩を並べる熱い漢だと感じる。


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