第八話:最後の光芒 章邯は雍王に、司馬欣は塞王に、董翳は ![]() (雍・塞・ ![]() 彼らには大きな役目が与えられた。 漢王に左遷された劉邦の監視の役目と、 漢軍が出撃した場合にこれを食い止める重大な役目であった。 章邯は中国の山野の地理に誰よりも詳しく、他の二人も秦の地理は熟知していた。 そして、項羽は章邯の軍事能力を信頼したからこそ彼を雍王に封じたのである。 章邯は項羽に全面的に信頼されていた・・・。 項羽が決めた王の領地図 ![]() 急いで作ったので、変な色&境界線がいい加減になってしまいました^-^;; 劉邦は、封地の南鄭に向かう途中、あの有名な蜀の桟橋を焼き払った。 それを聞いた章邯は安心した。 三秦(雍)の地へは、蜀の桟橋を通らない限り到達できないからである。 章邯はいささか防備を怠った。 しかし、漢の劉邦は韓信という傑物を得ていた。 彼はこう劉邦に説いた。 「三秦(雍・塞・ ![]() 章邯は秦の若者を率いて数年、戦死させた兵士は数え切れません。 そして章邯が降伏した後、新安で項羽のだまし討ちにあい、 20余万の秦兵が生き埋めにされました。 生き残った秦人は、章邯・司馬欣・董翳のただ三人だけです。 秦の父母はのうのうと生き残ったこの三人を怨み、憎しみは骨の髄にまで達しております。 項羽は権力と威圧でこの三人を無理に王にしていますが、 秦の民衆でこの三人に親しみを持つものはいません。 漢王は桟道を焼き払われましたが、秦に出る道はもう一つあります。 陳倉に通じる旧道がそれです。 これを急いで補修し大軍が通れるようにすれば、陳倉を奇襲でき、三秦は簡単に陥ちますぞ。」 劉邦はこれを聞いて非常に喜び、即座に韓信の計略を取り上げ、 陳倉の旧道を補修させ、そこから出撃した。 ![]() またまた急いで作った汚いMAP。 章邯は、まさか廃止されていた旧道から漢軍が大挙して押し寄せるとは思いも寄らなかったので、 処置が後手後手にまわった。 彼は陳倉で漢軍を迎え撃ったが破れ、退却して好畤に陣を布いた。 ここで章邯は名将の名に恥じぬ驚異的な粘りを見せた。 勢いに乗り押し寄せる漢軍を次々と撃退し、漢の将軍・紀成を殺した。 しかし、兵から憎まれている章邯と、秦人に絶大な人気がある劉邦では戦いにならなかった。 章邯の兵は次々と漢軍に降伏し、章邯は撤退せざるをえなかった。 章邯は廃丘の城に立て篭もった。 漢軍は幾重にも包囲し、猛攻を加えた。 しかし章邯の指揮する守備兵は強く、漢軍はいたずらに被害者を増やすだけだった。 韓信も万策尽き、包囲を続けて兵糧攻めに戦略を転換した。 章邯は耐えた。なんと九ヶ月も。 その間に、塞王司馬欣・ ![]() 三秦の地は、廃丘を除くすべての土地が漢の所有するところとなり、章邯は孤立無援となった。 弟の章平も攻城戦で漢軍の捕虜となった。 漢軍は廃丘を厳重包囲したまま、函谷関から出撃し項羽留守中の彭城を撃った。 しかし項羽の超人的活躍で惨敗し、漢軍は散り散りとなった。 このとき司馬欣と董翳はまたもや寝返り、項羽に降伏した。 後にこの二人は楚軍壊滅の責任を負って自害する。 天下は項羽・劉邦の大乱に陥り、項羽は救援に来ず、食糧も底をついた。 それでも章邯は降伏しなかった。 これには包囲していた漢軍も参ってしまい、奇策を実行することにした。 渭水を塞き止め、廃丘城に注いだのだ。 廃丘城は水没寸前となり、絶望した兵たちは漢軍に投降しだした。 しかし章邯は降らなかった。 彼は自らの頚動脈を切って自殺して果てた・・・・・・ |