干宝『捜神記』にみる秦始皇帝期の奇談 2 |
『史記』秦始皇帝本紀第六は、司馬遷の紀伝体の中でも白眉とも言うべき優秀な出来である。 今回はその記述の中の、始皇二十六年(紀元前221年)の項を見ることにする。 この始皇二十六年というのは、大変な年であった。 最後に残った燕が滅び、長らく続いた中国の分裂が終った年である。 始皇帝は文字・度量衡を統一し、天下の兵器という兵器を没収して咸陽に集め、 すべて熔かして巨大な釣鐘と、重さ千石(約30t)の銅像十二体を造った。 この銅像十二体に関して、『捜神記』では不思議な逸話を載せている。 「秦の始皇二十六年、身長が11.5m、足の大きさが1.4mという大男が全部で十二人、 いずれも夷狄(異民族の西羌のことか)の服を身に纏って臨桃(秦の西の果て)に現れた。 そこで始皇帝はその大男をかたどった銅像を記念に十二体造らせた。」 と記されている。 管理人が調べてみたところ、『漢書』地理志第八下の隴西郡臨桃の箇所には 特に目に付く記事はない。 同じく『漢書』地理志第八下の隴西郡の説明書きにも、 「山に森林樹木が多く、民は板を使って家を作る。」とあるだけで巨人の話はまったくない。 中国歴史文学の巨匠・陳舜臣も『ものがたり史記』の中でこう語っている。、 「・・・・・・・・・三十トンの銅像といえば、かなり巨大なものだが、 礼拝の対象なのか、単なる装飾用なのか不明である。 ・・・一説では、ひざまずいている夷狄の像だとも言う。 だとすれば戦功を記念するためのものかもしれない。・・・・・・」 結局、陳舜臣氏は、 「秀吉が刀狩りをした後、それを熔かして大仏を造ったのと同じ発想」だ、としている。 やっぱり、干宝の創ったハッタリだったのか・・・ |