追記:張氏、その後part2 |
掲示板でもりあがった話題について色々と調べているうちに、張耳の子孫が見つかりました。 もったいないのでこっちに移植しまーす。 張儉、字は元節といい、山陽高平の人である。前漢趙王張耳の子孫である。 父の張成は江夏太守であった。 張儉ははじめ茂才に推薦されたが、推薦者の刺史がよい人物ではなかったので 仮病をつかって出仕しなかった。 延熹八年、太守の超にこわれて東部督郵となった。 このとき中常侍侯覧の家は防東にあったが、百姓に残酷無法な振る舞いばかりをしたため、 これを張儉が暴き侯覧とその母を告発し、死刑にすべきと上奏した。 しかし侯覧はこれを途中で邪魔し、天子のもとへ届かせないようにした。 これ以後、二人は仇同士となった。 張儉は侯覧一派から讒言され、追われる身となった。 張儉は追手に迫られて切羽詰まると、通りすがりの家に飛び込み、泊めてもらった。 どの家も張儉の名と行為を尊敬し、一家滅亡を覚悟で彼を匿った。 張儉が立ち寄ったところでは、死刑になった者(孔融の兄褒も含まれる)が数十人も出た。 またその一族は族滅され、その郡県は荒廃してしまった。 中平元年、党人の禁が解除となり、張儉ははじめて郷里へ帰った。 大将軍からも、三公からも招かれ、[享卜]朴に推薦され、朝廷からは名指しで呼ばれ、 九卿の少府として働くよう命じられたが、張儉はすべて受けなかった。 献帝初年、百姓は飢饉に苦しんだ。 張家は家計が裕福であったので、財産を傾け尽くして村人に分け与えた。 そのお蔭で生き延びることができた者は何百人にものぼった。 建安のはじめ、(曹操に?)召されて衛尉に任命され、張儉はやむを得ず出仕した。 しかし、曹氏が天下を奪う兆候がすでに表れているのを感じ取ると、 門を閉じ、車を天井に吊り、政に関わらなくなった。一年あまりして、許で亡くなった。享年八十四。 また、五胡十六国の時代に涼州で独立した(317年)張軌は、張耳十七世の孫であるという。 |