正史『三国志』に見る司馬遷『史記』の真実?


司馬遷の『史記』が書かれてから、はや2100年が経過しようとしています。

『史記』の時代はますます遠ざかり、真実が判り難くなっています。

陳寿が書いた正史『三国志』に注を付けた裴松之も言っています。


「歴史家という人種は、史実を潤色して書き記すことが多い。

従って、書物に述べられていることには事実でないものも含まれている。

それを更に後世の歴史家が都合のいいように勝手に書き改める。

これでは真実からますます遠退くではないか。

後世の学者は一体どうやって真実を掴めばよいのだろうか。」



今回は『史記』よりあとに成立した歴史書の中から、『史記』の隠された真実を探りたいと思います。

出典は三国志魏書鍾王朗伝第十三です。



王粛(王朗の息子)が死刑についての上奏をしたとき、魏の明帝(曹叡)が司馬遷の話題を持ち出しました。


明帝

「司馬遷は腐刑を受けたことから心中怨みの念を抱き、

それで『史記』を著して武帝を非難したと言うが・・・。」

王粛 「司馬遷が事実を記録する場合、

怨恨などの感情で事実を曲げて記録することはありませんでした。

悪は悪としてあからさまに記述しています。

劉向学者。下に系図を載せてあります。)や揚雄(前漢末の有名な詩人・学者)は、

司馬遷がよく事実を記すことに感服し、その歴史を真実の記録と呼んでいます。

漢の武帝は司馬遷が『史記』を執筆しているという噂を聞き、

父の景帝と自分の本紀を取り寄せて読みましたが、大いに腹をたて、

その二つの本紀を削除して捨て去りました。


今でもこの二つの本紀は、目録があるのに本文がありません。

のちに李陵の事件が起き、武帝は司馬遷に宮刑を言い渡しました。

怨みの念を隠し持っていたのは司馬遷ではなく、武帝のほうです。


王粛によると、『史記』孝景本紀第十一孝武本紀第十二は武帝によって破棄され、

後世の歴史家が書き加えたことになります。

王粛だけでなく、当時武帝怨恨説は広く信じられていたようです。

確かに孝景本紀を読んでみると記述が非常に薄く、

司馬遷特有の上奏文の内容記述や天子の発言の記述が

孝景本紀ではまったく見られません。

『漢書』景帝紀を読んだほうがいいですね。

また孝武本紀では、『史記』封禅書と内容がほぼ一緒であり、

司馬遷が書いたかどうか怪しいと思います。


亡逸した箇所は少孫という人が補って書き加えたのではないか、

というのが通説となっています。

しかしあまりにも大昔のことなのであまりよくわかっていません。


このように、『史記』も散逸しているところがあり

後世の歴史家が書き加えたところもあるようです。



またなにか良いネタがあったら、まとめてみたいと思っています。



楚王劉氏


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