竇太后は都を陥れ、罪を着せて中尉を免職とし郷里へ帰らせた。 景帝は竇太后が都を殺すことを恐れ、都の自宅で雁門郡の太守に任命し、 自宅から近道で雁門郡へ直行させた。さらに何かと都の為に便宜を図ってやった。 在任三年、辺境であった雁門郡は大いに治まり、悩まされていた匈奴の侵攻も無くなった。 なぜなら後二年に都は匈奴を討伐し、 これを完膚なきまでに打ち破り「都鬼神の如し」と恐れさせたからである。 匈奴では都の人形を作り騎兵に射当てさせたが、 皆恐れて命中させることができない有様であった。 匈奴は雁門郡付近から全面的に兵を引き、都が死ぬまで雁門郡に近づこうとはしなかった。 竇太后はそれでも都を殺そうと機会を窺っていた。 結局、遠く宮中から法の上で死刑にする口実を見つけ、むりやり都を罪に陥れた。 景帝は都を救うべく、「都は忠臣です。」と弁護したが、 竇太后は、「では臨江王(劉栄。前話参照)だけが忠臣でなかったということですか。」と言った為に 景帝は何も言い返せなくなった。 都は無実の罪で斬罪に処せられた。 都の亡骸は故郷楊県に帰り、楊県の東南二十里に葬られたという。 |