正史『三国志』に散見する『史記』の人々


今回は、正史『三国志』から取材した、『史記』にまつわるお話をしたいと思います。


劉邦が皇帝に即位した時、異姓王(姓が劉でない王)が数人立てられました。

楚王韓信・代王韓信・淮南王英布・梁王彭越・趙王張耳・燕王臧荼・長沙王呉

が異姓王です。


しかし、BC203年に燕王臧荼が誅され、盧綰が燕王になったものの6年後に匈奴に降って廃され、

続いて楚王韓信がBC201年に淮陰侯に降格となり、5年後に誅されてしまいました。

さらに同年、代王韓信が匈奴に降り、5年後に戦死し、

趙王張敖(張耳は病死)がBC199年に宣平侯に格下げとなりました。

BC197年には梁王彭越が誅され人肉ハムにされてしまい、

翌BC196年には淮南王英布が反乱を起し、劉邦を負傷させたものの、

長沙王呉臣(呉は病死)に騙されて殺されてしまいました。

廃された異姓王の代りには劉邦の子どもや一族の者が立てられました。


要するに残った異姓王は長沙王呉臣ただ一人となってしまったわけです。

しかし、長沙王呉氏はBC157年に呉差に跡継ぎが無く廃されるまで、
(『漢書』異姓諸侯王表によると呉産。どちらが正しいか判らない)

五代四十五年間南方の長沙で王位を保ちました。

長沙王呉一族で諸侯になった者もいました。

初代呉の息子呉淺が便侯になり、呉陽は陵侯となりました。

また、呉の兄の子呉郢も義陵侯となりました。
(管理人の推測。『漢書』高惠高后文功臣表と『漢書』高帝紀を比較した結果です。間違ってるかも・・・)

彼らの一族は『漢書』高惠高后文功臣表を見る限りでは随分と繁栄したようです。



そして時は下って三国鼎立の時代。

劉禅の蜀漢が滅びる少し前、AD257年に魏の諸葛誕(諸葛亮の一族)

実権を握りつつある司馬昭に対して反乱を起こします。

諸葛誕は呉に帰順するという形をとって司馬昭に反抗します。

そのとき、誕の息子の諸葛は援軍を要請しに呉に行くのですが、(人質という意味もあったと思う)

そのときの介添役として呉鋼なる人物が登場します。


この呉鋼に関しては面白い記述があるので取り上げたいと思います。

註の『世語』に記載されているのを 丸写し 意訳すると、

黄初の末年(文帝曹丕の晩年)、呉は孫権の時代だったが、

呉の住民が前漢長沙王呉の墓を暴いて、

その瓦を使って孫堅(孫権の父)の廟を臨湘に建てた。

の棺を開けてみると、その容貌は生きているかのようであり、

衣服も腐敗しておらずきれいなままだった。

後に、発掘に参加した人が呉鋼に会ったとき、彼が呉そっくりなのに驚き、

「君は長沙王呉とそっくりだよ!!ただ君のほうが少し背が低いかな。」

と言った。すると呉鋼もビックリして、

「おお、それは私のご先祖様だよ。君はどうやって私のご先祖さまの顔を見たんだい?」

と言った。事情を説明すると、呉鋼は、

「なに!改葬はしたんだろうな!」と詰め寄った。

その男は、「勿論、すぐに改葬したさ。」と言った。

が死んでから墓が暴かれるまで四百年以上経っていた。

呉鋼は呉の16代目の子孫である。

と書かれています。

『世語』を信じるならば、呉鋼は長沙王の血をひく人物ということになります。


また、400年以上も経過した死体が新鮮だったという記述ですが、

1972年に長沙馬王堆で発掘された侯の利倉夫人は、2100年余も経っていたのにもかかわらず、

新鮮な死体と殆ど同じ状態で発見されましたし、

荊州で勢力を広げた劉表も、死後80年して墓が暴かれますが、

劉表と妻の死体はまるで生けるが如くだったそうですから、

ありえる話じゃないでしょうか。


中途半端になりましたが、時空を越えた『史記』と『三国志』の繋がり、

お楽しみいただけたでしょうか。


最後に参考までに長沙王呉氏の系図を載せておきます。

また何かいいネタが見つかったらまとめてみます。ではでは。



前漢長沙王呉氏一族





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