第十三話:運命の糸




太初元年、武帝が命じた暦の改定が終わった。司馬遷・壺遂らが中心となったといわれる。

同年秋八月、武帝は安定郡まで行幸し、寵姫李夫人の兄である弐師将軍李広利を出撃させ

西の果て大宛国を討伐させた。

良馬を奪うことが目的であった。

当時の漢の馬は質も匈奴に劣り、しかも連年の対外戦争で不足していた。

大宛征伐の兵は六千騎と天下の不良少年数万人を当てた。

李陵は五校尉(中壘・屯騎・ほ兵・越騎・長水・胡騎・射声・虎賁の八校尉のうちの五つ)を率いることを命じられ、

李広利の後を追った。

辺塞(玉門関か?)で李広利に追いつき、任務を果たして酒泉・張掖へ帰還した。



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李広利は砂漠を西進したが、軍規が乱れ途中の小国(オアシス国家)ですら攻め落とせなかった。

食糧は欠乏し、大宛の入り口郁成国に到着した時には僅か数千人となっていた。

それでも郁成を攻撃したが負け、敦煌へ撤退を始めた。

武帝は李広利退却の知らせを受けると全滅を危惧し、李陵に軽騎兵五百騎で敦煌を出発し

李広利を迎え入れるよう命じた。
(李広利を迎え入れる「漢書」の記述、一回目遠征の時の事か、二回目の時なのかはっきりしない。一回目のこととして解釈した)

李陵は車師前国の塩水で李広利と出会い、敗残兵を収容した。

太初三年春に李広利・李陵は敦煌へ辿り着いた。

李陵は役目を解かれ、再び酒泉・張掖へ帰還した



李広利と共に敦煌に辿り着けた兵は一割にも満たなかった。

武帝の怒りは激しく、玉門関から漢土へ踏み込むものは斬罪に処すと命じ、

恐れた李広利は敦煌で駐屯し武帝の指示を待たざるを得なかった。



同年五月、武帝は吏民の馬を登録させ兵車・騎乗の馬を補充した。

馬不足は深刻であり、大宛国の良馬の奪取に拘る理由は明白である。

さらに秋には匈奴の内紛に乗じて十六年ぶりに匈奴へ出兵。

野侯浚稽將軍の趙破奴が二万騎を率いたが、逆に倍以上の大軍に包囲され

趙破奴を含む全軍が降伏してしまった。


この頃、連年蝗害が酷く旱魃もあった。(匈奴の地も天災を受けている。異常気象があったか?)

その為、朝廷では大宛征伐を延期し対匈奴に全力を挙げるべきだとの議論が優勢となったが、

武帝は最も強硬に匈奴対策を主張した光を罪に落とし処罰した。

群臣は黙らざるを得なかった。

大宛再征伐は武帝独りで決定され、再び不良少年・罪人を繰り出し辺境警備の騎兵をかき集めた。

敦煌を出発した李広利の軍は兵だけで六万人、従軍する校尉は五十人を超えた。

牛十万頭・馬三万匹をもって食糧を運び、天下は騒動した。

李広利は大宛を包囲、別部隊は前回苦杯を喫した郁成を降し康居まで追撃し郁成王を殺した。

大宛は漢軍によって水を絶たれた為、王を殺し無条件で良馬を差し出す代わりに和睦を求めた。

李広利は和睦を受け、名高い汗血馬を含む良馬・繁殖用に三千匹以上を受け取り、

新たに親漢派の王を立て帰還した。

大宛が敗北したと聞いた小国は全て漢に降り人質を差し出した。


が、三千匹超の馬に漢土を踏ませることは容易ではなかった。

砂漠を渉る途中で多くを死なせてしまい、玉門関を潜った大宛の馬は千匹余りに過ぎなかった。

また軍規も緩みに緩み、戦死者が少なかったにもかかわらず帰還できた兵は

六分の一に過ぎなかった。

武帝は李広利の功績だけを取り上げ、「西極天馬の歌」を作り汗血馬を得た喜びを表した。



武帝の独裁、群臣の萎縮、人材の欠乏、李広利の無能。

李陵はこの後、李広利と共に対匈奴戦線に当たることとなる。

李陵の苦悩の運命はここから始まる…



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