陸家って?


これもぐっこさまのサイトに投稿したネタです。
『三国志』でも『三国志演義』でも有名な陸遜の一族についてちょっと調べてみました。
『後漢書』を探すと、これもザクザク祖先が出てきます。
では、いってみましょう。


こう(字は子春)。
会稽郡呉県の人。建武年間(AD25〜AD55)に尚書令になってます。美男子だったようで、越の布単衣を着て、光武帝に気に入られたそうな。陸賈の子孫かなんかですかね?

その孫が陸續(字は智初)。
故郷の会稽郡郡守尹興の下で貧民救済してます。そのとき粥を振舞った600人以上の人の名前を覚えていたとか。楚王劉英の謀反に連座し拷問され、皮膚は剥げ肉は爛れたが証言を変えず、結局母の「真四角の肉・一寸の葱」の差し入れで孝行者として赦免される。一生仕官できずに老衰死。

續の長男が広陵郡太守陸稠
次男が楽安郡太守陸逢
末子が陸褒
陸褒は学を好み孝行者。名誉を捨て、志を貫き一生仕官せず。

褒の子が陸康(字は季寧)。
義烈を称され臧旻に茂才に推挙され高成県令になる。武陵太守・桂陽太守・楽安太守と、後の孫呉の重要都市の太守に就任。銅人を造ろうとして百姓への増税を図る霊帝を上疏して諌め、大不敬罪を劉岱によって救われるが、故郷呉へ強制送還。後に廬江が、賊の黄穰らと江夏異民族連合10余万人で大変なことになったので、陸康は廬江太守に任命され悉く賊を降す。その功績で孫の陸尚は郎中に。
その後、袁術が寿春で飢え陸康に食料援助を頼んだときに断った為、袁術配下武将の孫策に攻められる。陸康は2年間篭城するも、70歳で病死。城は落ち、一族百人以上が餓死・病死。朝廷は彼の節義を憐れみ、子の陸儁を郎中に任命しています。末子の陸績は先に城から落ちていたために助かっています。

陸績、一族の陸遜、その弟陸瑁の事跡は『三国志』に詳しく載ってます。


と、ここで続報!!!!
NOBさま玉川雄一さまが、有力な情報をもたらしてくださいました。
そこで、管理人はペイントを酷使して陸家系図を作ってみました。お二方には感謝感謝でございます。
m(_ _)m

追記:この系図は、真実かどうかわかりません。『史記』でも記載が混乱しており、『陳留風俗傳』と『陸氏譜』では大きく記載が異なります。陸一族の自称かもしれないのであしからず。




間違いがあったら、こっそり教えてくださいね。(^-^;; NOBさま、追加情報サンクスです♪
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