附記:一族その後


れき食其には子がいた。れき疥といったが、しかし「疥」とは何と言う酷い名前だろうか・・・。

「疥」を漢和辞典で引くと、

@ 疥癬。伝染性の皮膚病で、非常にかゆい。(いわゆるインキン、水虫のことか)

A おこり。マラリア。

とある。

れき食其の息子も狂生であったのだろうか・・・。


れき疥は度々兵を率いて出陣したが、侯に立てられるほどの功績を立てられなかった。

しかし、高祖劉邦は父れき食其を追懐し、その功績をもってれき疥を高梁侯に封じた。

後に、武遂に領地替えになった。

れき疥は高齢を保ち、侯になってから63年して死に、共侯とおくりなされた。

子のれき勃が継ぎ、勃が亡くなると子のれき平が継いだ。

れき平は衡山王劉賜から金をだまし取り、死刑の上さらし者となるはずであったが、

ちょうど病死し、領地は没収され三代続いた武遂侯は絶えた。

宣帝の元康四年、れき食其の玄孫にあたるれき賜を取り立てて元の侯に封じ、祭祀を継がせた。


その後のれき食其の子孫の足取りは定かではないが、『後漢書』にれき食其の子孫が登場する。

彼の名はれき炎(字は文勝)。彼は孝行者であり、文辞に秀で、音律を理解し、弁舌爽やかであった。

彼はよく詩を詠み、霊帝のとき州郡から召喚されたがいずれも断った。

その後、彼は風病(流行病?気が狂う病気?)に罹ってしまい廃人同然となり、さらに母の死で病気は悪化した。

れき炎の妻が初産で死ぬと、妻の実家が訴訟を起こしれき炎は獄に繋がれた。

廃人同然のれき炎がまともに尋問に答えられるわけもなく、彼は紀元175年についに獄中で死んだ。

れき炎、わずか28歳であった。

その後、尚書であった盧植(劉備の師としても有名)が、れき炎の徳行功績を讃えた詩を詠み、

彼の遺徳を明らかにした。

れき炎の詩は、そっくりそのまま『後漢書』文苑列伝第七十下に載っている。)



また、れき食其の弟れき商は、兄とは別行動をとり、軍人として活躍した。

項羽配下の驍将鍾離眛と激戦を繰り広げ、項羽攻撃に加わること二年三ヶ月、ついに項羽を討ち、

劉邦を帝位に押し上げた。彼は漢の右丞相に任命され、たく侯に封じられた。

また功臣粛清戦にも参加し、黥布を撃破した功績で5100戸の曲周侯に改封された。

彼はその軍歴で、劉邦と離れて軍を指揮することが多かったという。

彼が撃破した敵軍は3、陥落平定した郡が6で、県は73、生け捕りにした高官は22人に登った。

彼は22年して死に景侯とおくりなされた。

子のれき寄(字は況)が曲周侯を継いだ。

れき寄は軍権を握っていた友人呂禄を騙し、呂氏誅滅に一役買ったが、

天下の人々は「れき寄は友人を売った」と言い合ったという。

後、呉楚七国の乱で兵を率いるもまったく活躍せず、結局彼は景帝の義母を娶りたいと失言し、

有罪判決を受けて国は没収された。曲周侯はわずか二代で断絶した。

このとき曲周侯は18000戸を有する巨大な侯であった。


しかし、景帝はれき寄の弟、れき堅を取り立てて繆侯とし、れき氏の後を継がせた。

れき堅は死ぬと靖侯とおくりなされ、子のれき遂成が繆侯を継いだ。

れき遂成は死ぬと康侯とおくりなされ、子のれき世宗が後を継いだ。

れき世宗は死ぬと懐侯とおくりなされ、子のれき終根が継いだ。

れき終根は武帝末期に太常(儀礼担当官)に登った。

当時の武帝は老衰昏乱しており、常に誰かが自分を呪詛していると思い込み

いわゆる「巫蠱の災い」を撒き散らし、多くの高官が嫌疑を受けて殺された。

丞相では公孫賀、劉屈り、外戚では弐師将軍李広利らが一族ことごとく誅殺された。

そして、武帝は自分の息子であり皇太子であった劉拠をも一族誅殺してしまった。

この惨劇にれき終根も巻き込まれ、呪詛の嫌疑をかけられて拷問を受け、腰斬された。



しかし、宣帝の元康四年にれき商の玄孫の子にあたるれき共を取り立てて繆侯とし、

れき氏の後を継がせた。


れき家系図

レキ家系図


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