附記:義の人、欒布 |
欒布という人は梁の生まれで、若い頃彭越と友人になった。 この頃はまだ秦帝国が健在で、税金の取立てが非常に厳しかった。 二人はどちらも貧乏だったので一緒の斉の地へ出稼ぎに行くことにした。 二人は何とか酒屋の下男の職にありついた。 しかし酒屋の旦那がとんでもない奴だったので、彭越は逃げ出した。 逃げ出したのはいいが食べていけなくなったので、鉅野の沼沢地に潜み盗賊稼業をしだした。 その頃、置いてけぼりにされた欒布は一生懸命働いていた。 しかし欒布は奴隷として売り飛ばされ、さらに北方の燕で奴隷の身分となってしまった。 欒布は非常に義理堅く一度口に出したことは必ず守った人だったので、主も彼を信用していた。 ある時、主人の親族が何者かに殺された。 欒布はすぐに、「ご主人様。私が下手人を必ず見つけ出し仇を必ず討ってみせます」 と、申し出た。 奴隷主は非常に憤慨していたが、 自分の力では仇討ちはできないと思って鬱々としていたところだったので、 彼の申し出を快諾しあわせて奴隷の身分から開放する約束をした。 欒布は主人のために仇を探し出し斬った。 彼の評判は一気に揚がり、一躍、燕では有名人になった。 そんな時、秦帝国が揺らぎ始めた。 宦官趙高が二世皇帝を操り各地で農民一揆が起き、その首領が王を自称し始めた。 燕では臧荼が将軍を自称し楚の陣営に属した。 臧荼は欒布の評判を聞いていたので招き都尉に抜擢した。 項羽が死に劉邦が中国を統一すると、臧荼は功績が大きいと評価され燕王に任じられた。 欒布も歴戦し功績も大であったので燕の将軍に任じられた。 しかし、臧荼の転落は速かった。 彼は謀反の罪を真っ先にでっち上げられ誅殺された。 このとき欒布も捕虜になった。 しかし、梁王になっていた彭越が大金を積んで欒布を助けた。 欒布は梁の大夫に任命された。 劉邦は、各地の王を自分が生きている内に粛清しようと思っていた。 彭越も取り潰される運命にあった。 しかし硬骨の欒布が梁にいる。彼は身をなげうっても彭越を守るだろう。 そこで、欒布が斉へ使者として出向いている隙に彭越を捕らえた。 彭越は謀反の罪を着せられ、一族皆殺しとなった。 あっという間の出来事であった。 欒布は斉の地で、 「ああ・・・。私がいれば、身をなげうってでも彭越さまを守ったのに。 私のせいだ。 臧荼さまは私を都尉に抜擢して下さった上、将軍に任命して下さった。 しかし、私は臧荼さまを死なせてしまった。 彭越さまは、私の命を救ってくれた上、大夫にして下さった。 しかし、私は彭越さまを死なせてしまった。 士は己を知る者のために死す、と言う。 私は死ぬべきだ。」 と、泣いた。 そんな時、洛陽城下に彭越の首が晒された。 「この首を、あえて埋葬する者がいたら、直ちに煮殺す。」 という、勅命付きのものだった。 欒布はすぐ斉の地を離れ、洛陽に向かった。 彼は洛陽に着くと、真っ先に彭越の首の下へ行き、斉での任務が終わったことを報告し、 彭越の首を抱いて泣き、霊を祀り、首を埋葬した。 当然、この騒ぎは劉邦にまで伝わった。 欒布はすぐさま逮捕された。 欒布は劉邦の前に引き出され、直々に尋問された。 劉邦「何で彭越の首を片付けた?奴の謀反に加担していたからか? 彭越の首を祀って泣いたのはお前一人だ。謀反に加担していたのは明白だ!! こいつを煮殺せ!!」 欒布「では、死ぬ前に一言言わせて下さい。 天子さまが項羽に追い詰められた時、 彭越さまが梁の地で項羽の糧道を断ち切ったから、今のあなたがあるんじゃないんですか? 垓下の決戦の時も、彭越さまがいたからあなたの今があるんじゃないんですか? あの時、彭越さまが項羽と手を組んでいたら漢は跡形も無くなっていたでしょう。 それなのに彭越さまが梁王になってからは天子さまに猜疑を受け、 挙句の果てには証拠不十分なのに死刑になりました。 このことを他の功臣達はどう考えているのでしょうか。 皆、身の危険を感じているでしょう・・・。 反乱が続けば、漢帝国はどうなるのでしょうか? まあ、もう私には関係ありません。 彭越さまが殺されあの世に逝ってしまった以上、私も生きている意味がありません。 さあ!早く煮殺して下さい」 劉邦「・・・お前は真の忠臣だ・・・」 劉邦はこの事件で欒布を認め、罪を赦し都尉に任命した。 その後劉邦は死んだが、欒布は昇進し続け燕の将軍にまで昇った。 そして彼は引退した。 そんな時、呉楚七国の乱が勃発した。 欒布が劉邦に言ったことが現実になったのである。 巨大な領土を持つ王や侯に対して罪をでっち上げて領地を削ったり廃したりしたため、 情勢不安になり起きたのである。 呉楚七国の軍勢は強く地方守備隊は惨敗した。 ここで欒布はまたもや抜擢され、大活躍して呉楚軍を破り兪侯に封じられた。 その後、燕の大臣を務め紀元前145年に死んだ。 彼が長い間住んだ燕や斉では、 彼の生前から欒布神社ができ、崇められていたそうである。 |