來家って?


管理人は『三国志』蜀書を読んでいて、來敏という人を見つけました。
この人、どうやら相当頑凶な人だったらしく、常軌を逸した言動が多かったそうです。
が、名家の子孫であり、劉禅の古馴染であったことから、誅殺はされませんでした。
ということで、早速『後漢書』を探した結果、もりもり情報が出てきたので、まとめてみました。
(この内容は、以前ぐっこさまのサイト【三国迷ぐっこのHP】に投稿したのもです。)


來漢。前漢武帝の時、光禄大夫の身分で、南越・衛氏朝鮮を討伐した楼船将軍楊僕を補佐。

來漢の孫の孫、來仲(東観記では來沖)。前漢末期の哀帝の時、諌大夫になる。

來仲の子、來歙(字は君叔)と來由。來歙は劉秀(後の光武帝)の一族でもあり、非常に仲が良く、
後漢王朝成立に尽力。羌を鎮撫し、蜀で最後まで抵抗を続けていた公孫述を攻めるも、公孫述の暗殺部隊に刺されて死去。光武帝は來歙の忠節を讃えて來由をとりたて、宜西侯とする。

來歙の子は來褒

來褒の子は來稜。明帝の娘を娶るも、早世。

來稜の子は來歴(字は伯珍)とし來超。來歴の記述はたくさんあるのでカット。(訳せないだけ^^;)大鴻臚の官についたまま死去。來しは歩兵校尉に、來超は黄門侍郎になる。

來歴の子は來定。安帝の妹を娶り、官は虎賁中郎将に至る。

來定の子は來虎えん(字は季徳)。來虎は桓帝のとき屯騎校尉になる。
弟の來えんは学者肌で、靈帝のときに司空になる。

以上が『後漢書』李王とう來列傳第五の内容。
以下が『三国志』蜀書杜周杜許孟來しょう郤傳第十二の記述。

えんの子は來敏(字は敬達)。姉は黄えんの妻。
後漢末の乱を避け、蜀に逃亡。学者として名高く、劉璋、劉備に優遇される。しかし行動・発言が異常だったため、免官・起用を何度も繰り返す。典学校尉→太子家令→虎賁中郎将→軍祭酒・輔軍将軍→光禄大夫→執慎将軍と転々とする。蜀では一番の困り者?? 97歳の高齢で死去。

來敏の子は來忠
來忠には父の面影があり Σ ̄□ ̄;; 姜維を補佐して参軍になる。

以上が管理人の來家調査結果です。『後漢書』と『三国志』しか当っていないので、『晋書』などを当ればもっと來家情報がでてくるかもしれませんね。持ってね〜(^-^;;


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