第八話:蒙恬死す


蒙恬の牢獄に二世胡亥の使者が来た。

蒙恬は死罪を言い渡されると言った。

「わが家は祖父から孫に至るまで、秦の為に功績を打ちたて信頼を重ねて三代を経ます。

臣は牢獄に繋がれていますが、未だに北方三十余万の兵の将軍であり、

臣の権威は秦に叛くことができるでしょう。

しかしながら、必ず死ぬと分かっていて義を守っているのは、決して祖父の教えに背いてはならず、

先君(始皇帝)のご恩を忘れてはならないと思っているからです。

この蒙恬、一族代々忠義を尽くしていて、今この有様です。

間違いなく悪臣(趙高ら)が謀反をはかり内乱を起こそうと考えているに違いありません。

桀は関竜逢を殺し、紂は比干を殺して後悔することなく、結局彼らは殺され国は滅亡しました。

だから臣は『過ちは正すことができる。諫言によって自覚できる』と申し上げたいのです。

今申したことは、死を免れようとする為ではありません。

諌めて死のうとする為です。

なにとぞ、陛下には万民の為に正しい道につくことをお考えくださいますよう、お願い申しあげます。」


しかし、胡亥の使者は冷たく言い放った。

「私は詔を受け、将軍に裁きを加えるために来たのです。

将軍の言葉を陛下に申し上げることはできません。」


蒙恬は落胆して大きな溜息をついた。

「一体、私にどんな罪があって死なねばならぬのか。

・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・いや。この蒙恬、死ぬのも当然か。

臨桃から始まり遼東まで続く万里にわたる長城を築き、谷を埋めたり山を崩したりしたが、

その間で地脈を断ち切ったのだ。これこそ蒙恬の犯した罪なのだろう。」

そう言うと毒薬をあおって自殺した。


蒙恬が死ぬと対匈奴最前線の兵士達は皆逃げ去り、瓦解した。


司馬遷はこう蒙恬を批判する。

「私は北方に赴き、蒙恬の築いた九原から甘泉への直通道路を通って戻ったことがある。

道すがら、蒙恬の築いた長城や塞、山を崩し谷を埋めて切り開いた直通道路を観察したが、

まったく民力の無駄遣いであった。

当時は秦が天下を統一したばかりで、人心は安定せず戦災者もいた。

蒙恬は名将として主君を諌め、人民の困窮を救い、老人孤児の面倒をみて

万民に和をもたらすべきであった。

しかし、彼は主君に迎合し土木工事を起こした。

恬と毅の兄弟が処刑されたのも当然ではないか。

その罪を、「地脈を断ち切った」ことだと言うのは間違えている。」



司馬遷の批判は辛辣である。

逆に始皇帝を諌めることができたのは蒙家の者だけだったと言いたいのか。

いずれにせよ、蒙恬が諌めたところでどうにもならなかったに違いない・・・


蒙恬は、万里の長城が代々補修され発展してついには世界遺産になるとは

夢にも思わなかったであろう。


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