漢・楚とは何か


楚とは?

伍子胥
呉起
屈原
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楚の人情

楚は春秋戦国時代
(紀元前771〜紀元前221年)に中国南方で強大な勢力を持った国です。北は斉・韓・宋に接し、西は秦に接し、戦国一広大な領地を有していました。楚の都は最初は(えい:現在の江陵)、後に秦の侵略に耐え切れず寿春(現在の淮南)に移りました。王族の姓は(ゆう)、祖先は三国志演義で有名になった祝融氏です。(伝説ですが)
また楚は強兵を生むところで、楚の荘王は天下の諸侯に号令する覇者になりました。

楚で有名な人と言えば、伍子胥
(ご・ししょ)がいます。彼は父親と兄を楚の平王に謀殺され、怨念と復讐に生きました。彼は呉に亡命し、度々楚を攻めるように進言しますが孫武(『孫氏』の著者)が諌めたためになかなか侵攻することができませんでした。そんな時、楚の平王が死にました。伍子胥は激しく怒り、また落胆しました。自分の手で殺せなかったからです。その後、孫武が「楚を攻めるのは今しかない。」と進言し、伍子胥は憎き楚に攻め入りました。伍子胥は楚都・郢を攻め落とし、平王の墓を暴き、死体を何百回も鞭打ちました。親友にその野蛮な行為を咎められると、「日暮れて道遠し」言い訳しました。のちにその親友が秦を動かし、楚国は劇的に復活します。伍子胥はその後、越との戦のことで王と対立し嫌われ、讒言されて自殺させられました。彼の死体は皮袋に入れられ長江(揚子江)に捨てられ流れていきました。彼の激しい恨みと怨念は長江の洪水を引き起こすと信じられ、河岸に祠が建てられました。人々はそこを胥山(しょざん)と呼び、伍子胥を哀れみました。

その約80年後、楚に仕官して重用されたのが呉起
(ごき:「孫呉」と並び賞される兵法家)です。彼は楚王族のうちで名誉職に就いている者を全て罷免し、遠縁の王族を全て平民に落とし、法を厳しく断行し、兵の給料を上げ戦士を育成し、百越(南方異民族)を平らげ秦を攻撃しました。彼は自分の為に妻を殺すような人だったので、楚の王族・貴族には相当怨まれていました。そのため、呉起を寵愛していた悼王が死ぬと貴族たちは共謀して呉起を殺そうとしました。呉起は王の死体を安置している部屋まで逃げ、重用してくれた悼王の遺体の上にかぶさりました。貴族たちの兵は矢を乱射し、呉起は射殺されました。しかし、矢は王の死体にも刺さりました。新しく王位を継いだ粛王は、王の死体に矢を放った者と彼らの主をすべて殺しました。このとき貴族ら七十余の家が一族皆殺しになりました。呉起の制定した法が生きていたからです。『史記』の著者司馬遷は、「呉起は残酷で人情を無視した政治を行った。身を滅ぼして当然である。悲しいことではないか。」と感想を漏らしています。

このように、楚は激情家を産出するところのようです。

呉起が死んでから約50年後、楚の懐王に仕えた王族の屈原
(くつげん)もまた有名です。彼は博学で記憶力に秀で、美文を綴り、乱世を治める才能を持った優秀な人材でした。ただ、正義感が強すぎ王にへつらったりする同僚とうまくやっていけませんでした。はじめ、屈原は懐王に寵愛され副総理クラスにいましたが、同僚に讒言され地位を追われました。屈原は大いに現実を悲しみ憂い、『離掻』という詩を作りました。この詩は中国史上に残る名文と讃えられ、散逸せずに現在まで伝わっています。その後、懐王は秦に買収された美女や大臣たちにまったく気付かずに騙され続け、秦の手玉に取られてしまいます。そして懐王は秦に買収されてしまった実の息子に騙され、秦都咸陽に行ってしまいました。屈原は自分の身を顧みず一生懸命に諌めますが、駄目でした。結局、懐王は秦で幽閉され、一度は逃げ出しましたが、また捕えられ遂に死にました。可哀想な懐王の亡骸は邪魔だとばかりに楚へ送り返されました。楚の人々は激怒し、「楚がどんなに衰えようとも、楚人が必ず秦を滅ぼす!」と言い合いました。楚王室では懐王のあとを継いで、頃襄王(けいじょうおう)が即位しました。しかし天は屈原にまだ苦しみを与えたのです。屈原はまたもや讒言され罪を着せられ、今度は遠方に流罪になってしまいました。屈原は、真っ直ぐな心は不要でねじ曲がった心を持つことが生きる秘訣になっている現世に絶望し、独り長江の岸辺の沼沢地をうめきながら髪を振り乱し死体のように彷徨い歩きました。そこで屈原を見たことのある漁師と出会いました。漁師は驚き、「何でこんな所にいるのです?」と聞くと屈原は、「世界は全部濁っているのに私だけが澄んでいる。皆が酔っているのに私だけが醒めている。だから追放されてこんな所を彷徨っているのだ。」と嘆きました。漁師は彼を哀れみ、「聖人は世の流れと一緒に動いていくものです。世界が濁っていれば屈原さまも一緒に汚れ、皆が酔っていれば屈原さまも一緒に酔えばいいではないですか。」と慰めました。しかし屈原は「髪が洗いたてならば冠もきれいなものを使う。入浴したあとは必ず垢で汚れていない服を着る。私は清い身なのに、穢れた服を着られるだろうか。それならば河に入り、魚の餌になったほうがましだ。」と言って「『懐沙』の賦」を作りました。この「『懐沙』の賦」もまた名文として史上に残る作品で、いまだに愛読されています。屈原は「『懐沙』の賦」を作り終えると、汨水と羅水が交わる汨羅で重い大きな石を懐にいれて投身自殺しました。人々は屈原の志を哀れみその怨念を慰めるために、彼が死んだ五月五日になると竹筒に米を入れて長江に投げ入れるました。この風習がチマキの起こりだと伝えられています。

こうして楚国は秦に騙され続け屈辱外交を続け、日に日に領土を削り取られました。
春申君黄歇や項燕らが必死に斜陽の楚国を支えましたが時すでに遅く、紀元前223年に楚王負芻は秦に捕えられ、楚は滅びました。秦の始皇帝の時代でした。


漢の劉邦  ・  楚の項羽とは


劉邦

項羽

「楚がどんなに衰えようとも、楚人が必ず秦を滅ぼす」という言葉は本当でした。滅びた楚の貴族で、項燕の息子の項梁が秦に対して反乱を起こしたのです。しかし項梁は秦軍に負け、殺されてしまいました。しかし、甥の項羽が軍を引き継ぎ章邯率いる秦軍を全滅させました。そして楚兵を率いて秦都・咸陽に攻め入ろうとしましたが一足遅く、既に友軍の将劉邦が咸陽を陥落させていました。

この劉邦という人は、楚国北限の泗水の近くの出身です。実家は農家でした。若い頃から定職に就かず盗賊や人殺しと付き合っていて、自分もゴロツキでした。女好きで、結婚もしていないのに子どもがいました。もちろん近所の評判は最悪でした。しかし滅法きっぷが良く、かれの周りには自然と人が集まってきたといいます。漢帝国の人材で、蕭何・夏侯嬰・曹参・周勃・王陵・任敖・樊などが沛出身の人です。
一方、項羽は幼い頃に父母をなくし叔父項梁に育てられました。項梁は秦の追手から逃れ、また人を殺してしまったので仇を避けて逃亡生活をし、呉に住み着きました。項羽は貴族の子弟として叔父から教育されました。が、勉強は嫌いで、「万人を相手にすることを学びたい!」と豪語しています。また、物凄い馬鹿力で背も大きく、亡命先の呉では有名でした。あるとき始皇帝の行列が呉を通りました。それを見て項羽は「あいつにとって代わってやるぞ!」と宣言したそうです。小さいときから気概ある人だったようです。
その後、叔父項梁が熊心を立てて懐王とし、を再興しました。まだ反乱軍ですが。その後、叔父が戦死し、項羽は軍を引き継ぎます。彼は戦争の天才でした。しかし20万を越える人民を生き埋めにしたりと問題が多い人でした。しかし彼にかなう者は一人もいませんでした。劉邦は秦を滅ぼしたものの、項羽を恐れ功績を譲りました。項羽は天下を取り、論功行賞し、覇王となり懐王を殺しました。しかし、行賞がずさんだったために各地で反乱が起き、それに乗じて劉邦も反乱を起こしました。このとき漢王を名乗ったようです。項羽は戦争の天才だったので優れた家臣を必要としませんでした。しかし劉邦は自分は才能が無いと思っていたのか、優れた家臣を大勢必要としました。
劉邦は賢者の献策を喜んで聞き多くの意見を取捨選択し、遂に項羽を滅ぼして天下を取りました。

項羽は死ぬときこう言ってます。
「戦に弱くて負けるのではない。天がわしを滅ぼすのだ。もう逃げても仕方あるまい。」
しかし漢皇帝になった高祖劉邦はこう言ってます。
「卑賤の身から天下を取ったのが運命なら、病で死ぬのも運命である。治療は無用だ。」
と・・・。


漢祚
その後、漢帝国は前漢・後漢と長く続き、三国時代に魏の曹丕に乗っ取られるまで約400年続きました。
曹丕の乗っ取り受けて、蜀の劉備は後漢を継ぐと宣言したそうです。彼は自称漢の王族でした。しかし劉備が建国した「蜀漢」はたった二代で滅んでしまいました。

三国時代が終わり天下を平定した晋が内乱で弱体化すると、北方異民族の匈奴政権は
独立を宣言し、国名を「漢」としました。かつては匈奴の代替わりの度に漢の皇女が嫁ぎ、匈奴の指導者には劉邦の血が流れていたのです。それで国名を「漢」にしたようです。当時の匈奴の指導者は劉淵といいました。彼は漢皇帝に即位し、晋を脅かしました。その後、劉和→劉聡→劉曜と続き国名を趙と改めましたが、劉煕の代で滅びました。

このように「漢が天命を受けて天下を統一した」という「漢祚」なるものは、あとの時代にもいい意味でも悪い意味でも利用されたようです。


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