第九話:その後の一族


かい通がいつ死んだのか、子があったのか、史記・漢書ではまったく書かれていない。

かい通の子孫は後漢書・三国志で登場する。時代は後漢最末期である。


かい通の子孫とは、かい(字は異度)かい(字は子柔)である。

この二人、一族であると思われるが血縁関係は不明である。

かい良の記述はわずかしかないため、ここでは主にかい越の事跡を辿ることとする。


かい越は南郡中廬県の人であり、豪族であったようだ。

三国志集解は、「燕出身のかい通は斉に遊学し、後に『斉の弁士』と呼ばれた。

かい越が『中廬の人』とあるのは、一族が斉から楚へ移ったからではなかろうか。」と指摘する。

かい越の人柄は公正であり、溢れる英知と逞しい肉体、堂々たる風貌を持っていた。

霊帝の外戚であった大将軍何進がかい越の評判を聞き、召しだして東曹掾に任命した。

当時、宦官の勢力が絶大であり政治は腐敗していた。

かい越は何進に宦官を誅殺するよう進言したが、何進は意見を用いることができなかった。

かい越は何進が滅亡するに違いないと察し、自ら求めて汝陽県令となった。


後に劉表が荊州刺史として着任したが、荊州は混乱していた。

そこで劉表は土地の実力者であったかい越・かい良・蔡瑁を招き相談した。

劉表 「現在、荊州は賊の勢いが盛んな上、民衆は従いません。

袁術はこの混乱を利用して支配を広げています。

今にも私たちに災難が降りかかってくるでしょう。

私は軍勢を召集しようと思っていますが、集まらないのではないかと心配です。

何か良い智恵はありませぬか。」

「民衆が劉刺史に従わないのは、仁愛が不足しているからです。

民衆が付き従うのにもかかわらず治まらないのは、信義が不足しているからです。

仁義の道が実施されれば、民は水が流れるように身を寄せてくるでしょう。

どうして兵を用いようとし、対策を問われるのですか。」

かい 「平和な時代は仁義を第一とし、混乱の時代は臨機応変の策謀を第一とします。

戦は兵の多さにかかっているわけではなく、

人材を配下に治めるかどうかにかかっています。

賊の中に、昔から私が面倒を見てやっている者もおりますから、

利をもって釣れば軍勢を連れてやってくるでしょう。

劉刺史は、道に外れた者を処刑しそれ以外の者はいたわり活用してください。

そうすれば荊州の民は生を楽しむ気持ちになり、

刺史の徳は四方に広まり、民は必ずや幼児を背負ってやってくるでしょう。

南は江陵を占領し北は襄陽を守れば、

荊州八郡は檄を飛ばして平定することができましょう。

そうすれば、袁術らがやって来たとしてもどうすることもできないでしょう。」


劉表は二人の言葉を用い、かい越に命じて賊に誘いをかけさせた。

賊の首領らが続々とやってきたので、五十五人を斬り殺し配下の軍勢を取り押さえ、

優れた者には軍勢を授けた。

江夏の賊、張虎と陳生だけは襄陽を占領したまま従わなかったので、

劉表はかい越とほう季の二人だけを使者として乗り込ませ、彼らを説得して降伏させた。

江南を平定した功績の大部分はかい越のものであった。

かい越は章陵太守に任命され、樊亭侯に封じられた。


後、天下の形勢を見取ったかい越は曹操への降伏を進言したが、劉表にとりあげられなかった。

劉表が死に劉そうが後を継ぐと再び降伏を勧め、劉そうは戦わずして曹操に降伏した。

曹操は「荊州を手に入れたことより、かい異度(かい越)を手に入れたのが嬉しい。」と言ったという。

人材マニアの曹操らしい発言である。

かい越は光禄勲(高官であり九卿の一つ)に任命された。


建安十九年(劉備が蜀を降した年)かい越は臨終に際して曹操に手紙を送り、家族のことを頼んだ。

曹操は返書をし、「私は頼まれた遺族の面倒を看なかったことはない。もし霊魂があるならば、

きっとこの私の言葉を聞いてくれるだろう。」と言った。


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