通がいつ死んだのか、子があったのか、史記・漢書ではまったく書かれていない。 通の子孫は後漢書・三国志で登場する。時代は後漢最末期である。 通の子孫とは、越(字は異度)と良(字は子柔)である。 この二人、一族であると思われるが血縁関係は不明である。 良の記述はわずかしかないため、ここでは主に越の事跡を辿ることとする。 越は南郡中廬県の人であり、豪族であったようだ。 三国志集解は、「燕出身の通は斉に遊学し、後に『斉の弁士』と呼ばれた。 越が『中廬の人』とあるのは、一族が斉から楚へ移ったからではなかろうか。」と指摘する。 越の人柄は公正であり、溢れる英知と逞しい肉体、堂々たる風貌を持っていた。 霊帝の外戚であった大将軍何進が越の評判を聞き、召しだして東曹掾に任命した。 当時、宦官の勢力が絶大であり政治は腐敗していた。 越は何進に宦官を誅殺するよう進言したが、何進は意見を用いることができなかった。 越は何進が滅亡するに違いないと察し、自ら求めて汝陽県令となった。 後に劉表が荊州刺史として着任したが、荊州は混乱していた。 そこで劉表は土地の実力者であった越・良・蔡瑁を招き相談した。 |
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劉表 | 「現在、荊州は賊の勢いが盛んな上、民衆は従いません。 袁術はこの混乱を利用して支配を広げています。 今にも私たちに災難が降りかかってくるでしょう。 私は軍勢を召集しようと思っていますが、集まらないのではないかと心配です。 何か良い智恵はありませぬか。」 |
良 | 「民衆が劉刺史に従わないのは、仁愛が不足しているからです。 民衆が付き従うのにもかかわらず治まらないのは、信義が不足しているからです。 仁義の道が実施されれば、民は水が流れるように身を寄せてくるでしょう。 どうして兵を用いようとし、対策を問われるのですか。」 |
越 | 「平和な時代は仁義を第一とし、混乱の時代は臨機応変の策謀を第一とします。 戦は兵の多さにかかっているわけではなく、 人材を配下に治めるかどうかにかかっています。 賊の中に、昔から私が面倒を見てやっている者もおりますから、 利をもって釣れば軍勢を連れてやってくるでしょう。 劉刺史は、道に外れた者を処刑しそれ以外の者はいたわり活用してください。 そうすれば荊州の民は生を楽しむ気持ちになり、 刺史の徳は四方に広まり、民は必ずや幼児を背負ってやってくるでしょう。 南は江陵を占領し北は襄陽を守れば、 荊州八郡は檄を飛ばして平定することができましょう。 そうすれば、袁術らがやって来たとしてもどうすることもできないでしょう。」 |
劉表は二人の言葉を用い、越に命じて賊に誘いをかけさせた。 賊の首領らが続々とやってきたので、五十五人を斬り殺し配下の軍勢を取り押さえ、 優れた者には軍勢を授けた。 江夏の賊、張虎と陳生だけは襄陽を占領したまま従わなかったので、 劉表は越と季の二人だけを使者として乗り込ませ、彼らを説得して降伏させた。 江南を平定した功績の大部分は越のものであった。 越は章陵太守に任命され、樊亭侯に封じられた。 後、天下の形勢を見取った越は曹操への降伏を進言したが、劉表にとりあげられなかった。 劉表が死に劉が後を継ぐと再び降伏を勧め、劉は戦わずして曹操に降伏した。 曹操は「荊州を手に入れたことより、異度(越)を手に入れたのが嬉しい。」と言ったという。 人材マニアの曹操らしい発言である。 越は光禄勲(高官であり九卿の一つ)に任命された。 建安十九年(劉備が蜀を降した年)越は臨終に際して曹操に手紙を送り、家族のことを頼んだ。 曹操は返書をし、「私は頼まれた遺族の面倒を看なかったことはない。もし霊魂があるならば、 きっとこの私の言葉を聞いてくれるだろう。」と言った。 |