『史記』に於ける異聞


陳寿が著わした正史『三国志』には膨大な注釈が付いています。

これは南朝宋の人、裴松之(はい・しょうし/字は世期)が勅命を受けて注を付けたものです。

裴松之には息子がいました。名は裴いん(はい・いん/字は龍駒)といいます。

彼もまた注釈者となり、現存最古の『史記』注釈書である『史記集解』を著しました。

その後、司馬貞が『史記索隠』を、張守節が『史記正義』を著し、膨大な注釈を付けました。

今回は彼らの努力の結晶である『史記』異聞を拾ってみたいと思います。



『史記』において不思議なのは、歴史上に燦然と輝く功臣達の字が殆んど伝わっていないことです。

名・字ともに伝わっているのは、陳勝(字は渉)、呉広(字は叔)、彭越(字は仲)、呂雉(字は娥く)、

張良(字は子房)、劉交(字は游)、劉喜(字は仲)、劉邦(字は季)、項籍(字は羽)、項纏(字は伯)、

くらいでしょうか…。


しかし、『史記』の注釈の異聞の中には字らしきものがチラホラ存在します。

例えば・・・・・・・・・

叔孫通。陸賈『楚漢春秋』では叔孫何と記されています。別名の可能性もあり。

曹参『史記集解』では敬伯という字があると紹介されています。

恵帝張皇后。皇甫謐の『列女伝』によればという字があるといいます。

文帝竇皇后。皇甫謐の『列女伝』によれば猗房という字があるといいます。

竇太后に関してはさらに異聞があります。

『三輔決録』の注によると、

「竇姫の父は幼くして秦の騒乱に遭い、身を隠して釣りをして生計を立てていたが、

淵に落ちてしまい溺死した。

景帝が即位すると、竇太后は父が死んだ淵を埋め巨大な墳墓を観津の南に作らせた。

人々はその墳墓を「竇氏の青山」と呼んだ。」

ということのようです。


陸賈『楚漢春秋』だけは同時代に書かれた書なので信憑性は高いと思われますが・・・