後漢書逸民列伝第七十三 ほう公 


ほう公者、南郡襄陽人也。居けん山之南(一)、未嘗入城府。夫妻相敬如賓。
ほう徳公という者は、南郡襄陽県の人である。けん山の南に住んでいたが、一度も城内に入ったことがなかった。
夫婦はお互いに敬いあい、賓客に接するような態度であった。
荊州刺史劉表數延請、不能屈、乃就候之。謂曰「夫保全一身、孰若保全天下乎?」
荊州刺史の劉表が度々招聘したが、ほう徳公を出仕させることができない。
そこで劉表自ら出向き説得した。
「わが身の安全と、天下の安全、どちらを守るほうが大切でしょうか?」
ほう公笑曰「鴻鵠巣於高林之上、暮而得所栖、げんだ穴於深淵之下、夕而得所宿。
夫趣舍行止、亦人之巣穴也。且各得其栖宿而已、天下非所保也。」
ほう徳公は笑って言った。
「鴻や鵠は高い木の上に巣を作るから、日が暮れれても休む所がある。
海亀や大亀は深い淵に穴を掘るから、夕刻になっても寝る所がある。
身の進退もまた、人にとっての巣穴である。人それぞれ、止まる所・休む所を求めているだけのこと。
天下の安全など気にかけることはない。」
因釋耕於壟上、而妻子耘於前。
そこでほう徳公は鍬の手を止め、畦に腰を下ろした。妻子は目の前で草むしりをしている。
表指而問曰「先生苦居けん畝而不肯官祿、後世何以遺子孫乎?」(二)
劉表は妻子の様子を指さして言った。
「先生は田畑で苦労なさり、官職を得て祿を食もうとなさらぬが、後々子孫に何を残されるおつもりですか。」
ほう公曰「世人皆遺之以危、今獨遺之以安、雖所遺不同、未為無所遺也。」 表歎息而去。
ほう徳公は言った。
「世の中の人は皆、子孫に危険を残している。今、私だけは子孫に安全を残す。
残すものは違うが、何も残さないわけではない。」
劉表は嘆息して立ち去った。
後遂攜其妻子登鹿門山、因采藥不反。(三)
その後、遂に妻子を連れて鹿門山に登り、薬草を採りに行ったまま帰ってこない。





(一)けん山在今襄陽縣東。
けん山は襄陽県の東にある。
 襄陽記曰「諸葛孔明毎至コ公家、獨拜牀下、コ公初不令止。
襄陽記はこう伝える。
諸葛亮はほう徳公の家を訪れる度、一人寝台の下で額をつけて挨拶をしたが、ほう徳公はそれを止めなかった。
 司馬コ操嘗詣コ公、値其渡べん上先人墓、コ操徑入其堂、呼コ公妻子、使速作黍、徐元直向云當來就我與コ公談。
司馬徽がほう徳公の家を訪ねた時、たまたまほう徳公はべん河を渡って先祖のお墓参りに出かけてしまっていた。
司馬徽は遠慮無しに堂に入り、ほう徳公の妻子を呼び、急かして黍を炊かせた。
「『お客様がほう公の処に話をしに行かれるはずです。』と徐元直(徐庶)が言っていたでしょう。」と言った。
 其妻子皆羅拜於堂下、奔走共設。須臾コ公還、直入相就、不知何者是客也。
ほう徳公の妻子は皆、堂の下に並んで挨拶をすると、司馬徽の接待の為に駆けずりまわった。
しばらくしてほう徳公が帰ってきた。彼はすぐに堂に入り司馬徽の元へ行ったが、この客が何者であるか知らなかった。
 コ操年小コ公十歳、兄事之、呼作ほう公、故俗人遂謂ほう公是コ公名、非也。」
司馬徽はほう徳公より十歳若かったので、ほう徳公に兄事しほう公と呼んだ。
ゆえに世間では「ほう徳公」の名が「ほう公」だと思われているが、それは間違いである。
(二)襄陽記曰「コ公子字山人、亦有令名、娶諸葛孔明姉、為魏黄門吏部郎。子渙、晉太康中為そう柯太守。」
襄陽記はこう伝える。
ほう徳公の子は字を山民(本文では「民」の字が避諱されている)といい、また高名であった。
諸葛亮の下の姉を娶り、魏に仕えて黄門吏部郎となった。ほう山民の子、ほう渙は晋の太康年間にそう柯太守となった。
(三) 襄陽記曰「鹿門山舊名蘇嶺山、建武中、襄陽侯習郁立神祠於山、刻二石鹿、夾神道口、俗因謂之鹿門廟、遂以廟名山也。」
襄陽記はこう伝える。
鹿門山の元の名前は蘇嶺山であった。
建武年間、襄陽侯であった習郁がこの山に祠を建て、二頭の石の鹿を彫って参道入口を挟むよう置いた。
これにちなんで鹿門廟と呼ばれるようになり、遂に廟の俗名がそのまま山の名前になってしまったのである。


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