| 第一話:伝説の名将 |
| 項梁(こうりょう)という人は、戦国時代の楚の将軍家の子孫である。 先祖は下相(かしょう:現在の江蘇省宿遷県)に住んでいたが、 武功を立て、楚王から項(現在の河南省)の地を賜ったため項姓を名乗ったと言われる。 項家は代々楚の将軍職に就いた。 戦国末期、項家から名将が出た。 彼の名は項燕(こうえん)。項梁の父である。 彼は天下統一間近の秦の圧力に耐え、斜陽の楚を支え、一度は秦軍をはねかえした名将である。 秦の将軍李信(りしん)と蒙恬(もうてん)が20万の兵を率いて楚に攻め入ってきた時、 項燕は徹底した後退作戦を取り、 李信・蒙恬を勝ち奢らせ、調子に乗って深入りしたところを叩きのめした。 この戦で項燕は李信軍に大打撃を与え、部隊長7人を殺し、秦軍を撤退させた。 (ちなみに、李信は司馬遷の友人・李陵の先祖である→李陵の詳細はココ) しかし秦はまたも軍備を整え老将・王翦(おうせん)を大将に立て、今度は60万の大軍で攻め寄せてきた。 王翦は巨大な兵力を持っているのにも関わらず、徹底した堅守作戦にでた。 彼は、項燕がいくら挑発しても兵を出そうとはせず、 逆に兵達を風呂に入れさせたり、一緒に飯を食ったり、 石投げで遊ばせたり、幅跳びを競わせたりして鋭気を養った。 項燕は、いくら挑発しても埒があかないのでいったん引き揚げることにした。 王翦はこの瞬間を待っていたのだ。 彼は全軍に出撃命令を出した。 項燕は大敗し、王翦軍に捕まり殺された。 楚にはもう、秦の圧迫をはねかえせる将軍はいなかった。 項燕が死んでから一年あまりで楚の都は陥落し、楚王は虜となり楚は滅亡した。 楚人は秦を憎んだ。 そして、一度は秦を破った項燕を悲劇の名将に祭り上げた。 その後、項一族は秦帝国ににらまれ、楚から逃亡した。 項梁は、甥の項羽を伴って呉地方に逃げた。 弟の項伯は、下 呉に逃げた項梁は、父親の名声と自らの不思議な魅力で人々を秘密裏にまとめあげていくのだが・・・・ |