附記:張良の子孫たち


張良には史書で確認する限りでは、二人の子がいた。

留侯を継いだ張不疑と、侍中となった張辟彊である。


張不疑は留侯を継いでから十年後の文帝三年(紀元前177年)、不敬罪で死刑に相当したが、

平民となり、城旦(早朝から築城などの土木作業の労役に服する罰)で死罪を免れた。

留侯は僅か二代で断絶した。


張辟彊は、張良存命中に恵帝の侍中(天子の側近で、下問に答える役職)となった。

恵帝が亡くなると左丞相陳平に、

「今、呂后は何をするかわからない。呂后の専制を認めよ。」

と現実的な献策し、これが受け入れられた。当時、張辟彊十五歳であった。

呂氏はこれより天下の主となって権力を振りかざすのだが、

呂后亡き後のために功臣たちの力を温存した功績は大きいといえる。

『史記』『漢書』では、その後の彼の消息はわからない。


留侯は断絶したものの、子孫は長く残った。

元康四年(紀元前62年)、張良から数えて六代、張不疑から数えて五代の子孫、張千秋を探し出し、

宣帝はこれに留侯を継がせ、黄金二十斤を下賜した。

『漢書』ではその後の張良の子孫は消息を断つ。



しかし『後漢書』には二人、張良の子孫が登場する。

張超、字は子並。

文才豊かであり、霊帝期の黄巾の乱のとき車騎将軍朱儁(字は公偉)に従って別部司馬となった。

賦、檄文、碑文など、様々なものを書き残し、また草書の大家として名を馳せた。

世の人々はその絶妙な筆使いに感嘆したという。

ただ筆が厳しすぎるとの批評があり、後に呉の皇象(字は休明)が欠点を補って

草書の奥義を究めたという。


もう一人は、張皓、字は叔明である。(陳寿『三国志』では張浩になっている)

張良の六代目の子孫にあたり、けん為郡武陽の人であるという。

若い頃、洛陽に遊学し、和帝の永元年間に故郷に帰って仕官した。

後に大将軍とうちょくに召し出され、尚書僕射に昇進した。官にあること八年で外に出、

明帝の子、彭城王劉恭の相となった。隠者の閭丘ばくを推挙した。

安帝の永寧元年、召し寄せられて廷尉に任じられた。

安帝が太子を廃立しようとしたとき、誰もが反対しなかったが、

廷尉張皓・太常桓焉・太僕來歴だけが強硬に反対した。

張皓は、武帝を誑かして太子を破滅に追いやった江充とそれを諌めた令孤茂、

そして武帝が痛く後悔して思子宮を造り、

帰来望思之台(子の魂の帰りを待つの意)を太子の死んだ湖県に築いた例を引き合いに出して諌めたが、

まったく取り合ってもらえなかった。

しかし、安帝が死に太子が無事即位(順帝)すると、恩人の張皓をすぐさま司空に任じた。

張皓は天下の有能の士を推挙し、また順帝を諭して政治を非難して死罪になっていた趙騰を救った。

司空になってから四年して免じられたが、陽嘉元年に廷尉となり、

その年のうちに官についたまま亡くなった。八十三歳であった。


張皓の子は、張綱。字は文紀。(彼の事跡は後漢書と三国志では少々食い違う)

若いうちに孝廉に推されたが就かず、司空に招かれ侍御史に任じられた。

順帝は宦官を寵愛し、張綱はこれを諌めたが聞き入れられなかった。

漢安元年、光禄大夫に任じられ権力者梁冀を弾劾したために人々は竦みあがったという。

ちょうどその頃、広陵の賊・張嬰が数万人を率いて反乱を起こし、刺史ら高官を殺害した。

梁冀は常々張綱を怨んでいたので、綱を広陵太守に左遷し、

反乱を鎮圧してもしなくても殺すつもりであった。

張綱は兵を率いずに一台の馬車に乗って広陵に向かい、真っ直ぐに張嬰の軍門を訪れた。

張嬰は驚き怖れ、門を閉ざそうとしたが、張綱は利害を説き張嬰に会見を申し入れた。

張綱は張嬰に会うと、反乱を起した経緯を聞き、恩赦の勅書を示して赦すことを伝えた。

張嬰は、張綱の誠実な心に打たれて涙を流し、罪に服すことにした。

会見の翌日、張嬰は一万人を引き連れて妻子とともに自らを縛って出頭した。

張綱は全員の縄を解いてやり、優しい言葉をかけた。そして張嬰を帝に推挙しようとしたが、

張嬰は自らの罪の為にこれを断った。

これより徐州は平穏になり、張嬰ら一万人は農地に戻り農業養蚕に努めたので、大いに潤った。

しかし、梁冀が邪魔をしたので侯にはなれなかった。

帝はその功を以って都に召し寄せようとしたが、張嬰が上書をして留任を願った。

張綱は在官のまま三十六歳で亡くなった。張嬰らは慟哭し、父母を喪ったのと同様であった。

張嬰らは、張綱の遺骸を故郷のけん為まで送り、葬儀が終わると塚を作り祠を建てた。

帝は張綱の死を悼み、詔を下して子の張續を郎中に取り立て、百万銭を与えた。


張續の孫、張翼は字を伯恭といい、蜀に入った劉備に仕えた。

はじめ江陽の令、続いてふ陵の令に移り、梓潼太守、広漢・蜀郡太守と昇進した。

建興九年(231年)、らい降都尉・綏南中郎将となった。

張翼は法を厳格に執行して、異民族を懐柔するようなことはしなかった。

異民族の頭・劉冑が反乱を起したとき、張翼は討伐中に成都へ呼び戻された。

しかし、免職になったのにもかかわらず、後任の馬忠が到着するまで指揮を取り続けた。

諸葛亮はこの愚直さを聞いて感心し、張翼を前軍都督にし、扶風太守を兼任させた。

諸葛亮が死ぬと、後主劉禅から前領軍に任命され関内侯の爵位を賜った。

延煕元年(238年)、政府に入り尚書となり、督建威・仮節に進み、都亭侯征西大将軍となった。

大将軍・録尚書事の費いが亡くなると、あとを継いだ姜維は連年出兵し、張翼もこれに同行した。

延煕十八年(255年)姜維とともに成都に帰還し、再度の出兵を姜維が提案すると、

張翼ただ一人が反対した。

姜維は聞き入れなかったが、張翼の才能を高く評価していたので鎮南大将軍とし、狄道に出兵した。

魏の雍州刺史王経を打ち破り、一万人以上を殺し、大殊勲をあげた。

姜維は勝ちに乗じてさらに進攻しようとしたが、張翼はこれを止めた。

「蛇足である」とまで極言し姜維を怒らせたが、結局彼は進攻して陳泰に撃破されて失敗した。

景燿二年(259年)、左車騎将軍に進み、冀州刺史を兼任した。

景燿六年(263年)、姜維とともに剣閣に立てこもり、侵攻して来た魏の鍾会・とう艾軍に対抗した。

しかし、とう艾が別の道から進撃し、諸葛瞻は討死し、劉禅は降伏したために、

張翼は姜維とともに鍾会のもとに出頭した。

翌年、鍾会に従って成都に入ったが、勝手に独立しようとしたために将兵の憤激を買い、

鍾会・姜維が殺されたときに、張翼も巻き込まれて殺されてしまった。


張翼の子は張微字は建興といい、学問に打ち込み

晋の時代に広漢太守にまで登った。

太安元年(302年)五月、蜀で李特が反乱を起こし、広漢は包囲され張微は殺害された。



どうやら、張良の子孫は蜀方面に散らばったようで、

『捜神記』にも、益州から雲南にかけて黄石公信仰が盛んであったとの記述がある。

張皓がけん為出身であるのと何らかの関係があるのだろうか。



HOME