第五話:張楚滅亡


周文は陳の人で、楚の項燕に視日(日時の吉凶を占う)として仕えたことがあり、

同じく楚の春申君にも仕えたことがあった。陳の人々は彼を賢人として立てていた。

周文は兵をあわせ十万余、武器戦車を奪い馬車千乗となり、

誰も破ることができなかった函谷関を破り、戯に布陣した。

咸陽は震撼し、さすがに目が覚めたのか二世皇帝は少府章邯に命じて周文を討たせた。

周文は章邯に勝つことができず函谷関を脱出し、曹陽に兵を集め二ヶ月持ちこたえた。

が、猛攻に耐えきれず敗走し周文はべん地で自殺し軍は壊滅した。



章邯は呉広に包囲されていたけい陽に向かった。

けい陽は丞相李斯の子の李由が堅守しており、呉広は落とすことができなかった。

呉広軍は周文が敗れると動揺し、将軍田臧が陳勝の命令と偽り呉広を殺し

陳勝に呉広の首を献じた。陳勝は田臧を令尹(宰相)とし上将に任じた。

田臧は上将となるとけい陽の包囲を将軍李帰に任せ、敖倉で章邯を迎え撃った。

田臧は大敗し戦死、続いて李帰もまた打ち破られ戦死した。


章邯は陳へ進攻した。

たんにいたとう説・許にいた五逢も打ち破られ、陳に逃げ込んだ。陳勝はとう説を誅殺した。

陳勝は出陣して戦ったが、上柱国の蔡賜と将軍張賀が戦死し軍は壊滅した。

陳勝は下城父まで逃げたが、御者の荘賈に殺された。

陳勝はとうに葬られ隠王と諡された。

建国から半年、あっけなく張楚は消滅した。



陳勝が王になった頃、傭夫の頃の友人が陳に来てしつこく面会を求めた為

客人として宮殿にあげた。

友人は「なんと夥しい(おびただしい。楚語)。渉も立派な王になったもんだ!」と言いふらした。
(このことから「夥渉」といえば王のことを指すようになったという。)

陳勝の側近が「これでは王の威厳に傷がつきます。」と進言し、陳勝はこの友人を殺してしまった。

これを知った陳勝の友人らは皆去って行った。

また、陳勝は朱房と胡武を監察官に任命し、諸将を苛酷に監視させた。

諸将は陳勝を見限り、独立離反した。

これらが陳勝が組織化に失敗し敗れた遠因であるという。


陳勝は死んだが、彼が任命した者たちが秦を滅ぼした。

後に天下を平定した劉邦は、とうの三十家に陳勝の墓を守らせた。

長い間生贄を捧げ祭っていたが、王莽が敗れると祭祀が絶えてしまったという。


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